「帰らざる河」
岩見沢市   伊東 良幸
マリリンモンロー主演の映画の題名を拝借して、それをテーマとして思い起こします。
幾春別川の思い出が、一番鮮明になるのは、川で遊んでいた小学校時代の頃の事です。
北本町小学校は、河川の改修によって、開校40年で歴史を閉じました。その跡地に北盛会館が建ち、その隣に「北本町小学校跡地記念之碑」が建てられました。
中庭の鉄棒・ブランコ・雲悌・北海道の形をした池・百葉箱・砂場・回尖塔・川へと続く道など、遊び場の大部分が川に変わりました。
昭和33年から38年頃までの幾春別川の思い出を少し書いてみます。
夏 まさに川遊びの本番だった。ウグイ・カニつり・ヤツメウナギ取りなど、実に多彩だった。
釣り具は、竹竿の代わりに小枝を使い釣針も必要がなかった。“上根の池”で取ったタニシを凧糸の先に縛り付けただけの簡単なものだった。小枝の先がクィクィッとしのるのを待ち、そろりそろりとタニシに食い付くカニが離れないように糸をたぐった。流れが急な川中に陣取り、川上に向かって踏ん張った。
また、両手を川の中に入れて、ふくらはぎにまとわりつくヤツメウナギを手づかみで捕らえた。そばにいた中学生が、「血を吸うぞ」と教えてくれた。キスマークが付いた。ヤツメウナギは円口類で、鰻よりビタミンAが豊富であると図鑑で知った。
川の色は澄むことがなく、いつも土色だった。“上根の池”は水がきれいだったが、川で泳ぐのが楽しく、遊び惚けていた。
たまには、石炭拾いを手伝ったが、私の拳ぐらいの石炭が取れたときは、じいさんに「ようやった」とほめられた。じいさんは、毎日のように、北盛橋の左岸あたりで、少なくなった石炭を取っていた。
昭和35年に増築された新校舎には、6年生と新1年生が入っていた。新校舎は狩野橋と屋内体育館の間に増築され、当時 3年生の私も早く入りたいと思った。その頃には、橋のたもとの御堂は無かった。
七夕には「ろうそくだーせ、だーせよ、だーさないと、かっちゃくぞ……」と言って町内を歩いた後、この御堂の前に行列を作ってお菓子を頂いた。
この御堂には水難者供養のお地蔵さんが入っていたが、河川の切替工事があった昭和34年に光明寺に移設された。
狩野橋のすぐ上流は、大きくカーブし、流れは穏やかだったが、よどみが深く、子どもの目にも危険な場所と思えた。子どもが溺れた時、自衛隊の箱型の船が救助に来て捜索活動をするのを、橋のたもとから見た記憶がある。その川も、今は護岸され、美しい曲線を描き、水難事故の捜索や洪水時の土嚢積みなどを見た場所とは思えない。
秋 野菜は、畑だけで取れるとは限らない。川の土手の中でも取れた。
毎年、同じ区画をそれぞれの人が耕し、作物を収穫していた。北本町小学校の河川敷、緑北プールのそばの河川敷には、いつも八百屋で売られている程度の野菜が作られていた。河川敷には千代田小屋(緑焼きの窯元)、緑北プールもあった。
河川敷には、色々なものが見られ、しかも、見晴らしが良いので、堤防を歩くのが好きだった。今も、秋の夕日に映えた大きな松の景色が、心に残っている。
冬 昭和 7年に川が改修されて以来、その古川はドンキーの坂と呼ばれ、子ども達の格好のスキー場となった。単板のスキーは、エッジがなく、カンダハーにゴム長靴、竹のストックでドンキーを縦横無尽に滑りまくった。ゲレンデは高さ数十メートル、下には氷が張る沼の様なものがあったが、雪が深くなると問題は無かった。
「ドンキー」の名前の由来は、社会人になってから、揚水機(ドンキー)があったことから付いたと知った。
東川向にも「古川」と呼ばれるスキー場があり、上級者向けであった。遠いのであまり行かなかったが、馬そりの後ろにつながって行ったこともある。
春 雪解け水がどうどうと流れていたので、恐くてあまり近寄らなかったが、川のそばには、ネコヤナギがあり、フェルトのような肌触りの花は、触ると気持ちが良く、咲くのを待って取りに行った。花の少ない時期であり、幾春別川で一番先に春を感じた。
卒業後 友人と二人で、自転車に乗って西川町へ川を見にいった。高く盛土されて長く続いた工事現場を遠くに見た。
今、地図を見ると、幾春別川放水路として示され、緩いカーブで蛇行も無く石狩川に向かっている。
川は曲がっていないと、どうも川という気がしない。用水路という感じがしてしまう。
放水路によって取り残された旧幾春別川は、今も上幌向町との境に短いながらも蛇行して流れている。
私にとっては、「毎年、一匹はアメマスを釣り上げた」と、友が言っていた現在の旧幾春別川が、ふるさとの川と思え、それがまた、もう帰ってこない河の思い出に重なる。

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