むかし あったけど
札幌市 佐藤 浩
「昔、あったけどのう。岩見沢のたようさん(太夫ー神主らしい)がの、西川向(今の西川町)の親戚に、婚礼さ呼ばれて行ったと。幾春別川の、西新橋を渡っていたときの、橋の上にキツネがの、一匹チョコンとおったと。たようはこれをみて、『このキツネめっ』て言って石を拾って投げ付けたど。キツネは恨めしそうに振り返りながら逃げていったど。
親戚の家で祝い酒に酔って、たようさんはいい機嫌で家に帰ったと。『ばあさん、いまかえったじゃ』『さあ、じいさん寒いからこっちよって、あたらっさい』。たようがストーブのそばに座ると、ばあさんはせっせと薪をくべたと。
ストーブがゴンゴンもえて『ばあさん、あついっちゃ』と、たようはズイッと後ろに下がる。それでも、ばあさんが薪をくべるので、また『ばあさん、あついっちゃ』と、ズイッと下がったとたん、たようさんは『ザボーン』と幾春別川に落ちたと。『助けてくれー、おら、岩見沢のたようじゃあ、助けてくれっちゃあー』と泣き叫んで、ようやく助けられたと。
気が付いてみれば、そこは西新橋の真下で、行き掛けに石をぶつけたキツネが、仕返しにだましたんだと。だから、なんでも生き物はの、いじめてはなんねえど……」
これは、父親を早く亡くした孫たちのために、祖父が語ってくれた昔話の一つです。祖父は山形県の庄内で生まれ育った人で、言葉は庄内弁丸出しでした。右の話も庄内弁で語ってくれたのですが、60年も前の話で正確には復元できません。祖父は、大変とん知のいい人で、面白おかしく昔を語ってくれました。夜になると「じっちゃん、むかし語って」と私たち兄妹は祖父の寝ている布団に足を突っ込んでせがんだものです。優しい祖父でした。
さて私は、昭和4年7月8日に岩見沢町川向鉄道官舎49号で、父・直太と母・美好の次男として生まれました。11年2月に父が病死のため、幾春別川を渡って、今の住所でいうと多分北本町東4丁目辺りに引越し、4月に北本町尋常小学校に入学、13年4月、中央小学校に転校するまでの9年間を幾春別川のほとりで育ちました。
岩見沢を流れる川は幾春別川と利根別川があり、利根別川は岩見沢の南を東西に流れて幌向川に注いでいたと思います。幾春別川は鉄道線路の北側、元町と北本町の境を流れる川で、炭鉱地帯を通って来るせいか何時も黒ずんでおりました。
幾春別川には当時、名のある 4つの橋がかかっていて、一番西にあるのが昔話に出て来た「西新橋」。この端を通って西は西川向、北は北村を経て月形に、南は志文・万字に至ります。
そのとなりが「北盛橋」と「川向橋」(現・狩野橋)。「川向橋」は、今の地図を見ると、2条東2丁目から陸橋で函館本線を越え、そのまま北本町に入るようですが、当時は北本町と元町を直線で結ぶ木製の橋でした。橋を南に渡って、元町の中心街を通り踏切を渡ると夕張通りにつながり、鳩が丘を経由して夕張へとつづきます。また、北へ渡ると北本町に出て、川向を経て月形につながる主要幹線(今は東西の分岐点)でしたから、人馬の行き交う交通の要所でありました。橋ができる前は、ここに渡船場があって、狩野さんという方がやっておられたので、この名が付けられたと聞いております。
東にある 4番目の橋は「長平橋」といい、橋の北側は東川向、南は遊郭につながっていて、子供にとっては縁のない存在でした。
この川は、昔は川向橋のあたりから南に方向を変え、元町商店街の裏手を通って国鉄函館本線の手前で西に向きを変え、しばらく西進して北に向かい、今の幾春別川に注ぐ形で迂回していたものと思います。いつのころか、この迂回した部分を切り替えて、今のようになったと思うのですが、切り替えで残った川は「古川」と呼ばれ、物心の付いた4,5歳のころには、元町側は水が干上がって、線路側から西の方に水をたたえておりました。
私の生まれた川向鉄道官舎は、幾春別川と古川に囲まれた広い大地に群れをなしておりました。メイーン通りが 1本あって、その両側に官舎群があったのですが、西の端には釣り橋がかかっていて古川の対岸と結んでいました。対岸には鉄道工場跡地で、レンガだての廃屋があり、子供の冒険心をそそってくれました。工場跡地の堤防にレンガで造った井戸のようなものが古川に出っ張るように作られていましたが、「ドンキ」と呼ばれて親しまれていました。
「ドンキ」と呼ばれる一帯は、大人にとっても子供にとっても恵みの場所でした。古川の官舎側はゆるやかな斜面の砂地で、春から秋までは鉄道員の家族菜園として利用され、新鮮な野菜の供給源でした。
子供達にとって、釣り橋は工場跡地とは違った冒険の場所です。ワイヤーを揺すって、揺れる橋を体のバランスを取りながら渡るのです。随分危ないことをやっていたと思いますが、不思議と事故はありませんでした。冬になると、古川のゆるやかな斜面はスキー場に変わって、子供は雪だるまになってスキーやソリを楽しみます。また、釣り橋の北側は古川を挟んで大人も交えて凧揚げが行われました。私の祖父はとても凧の調整がうまい人で、奴凧の足に新聞紙を切って「足」を足し、腕の両端を結んだ糸に障子紙切って「うなり」をつけてくれます。それを堤防に持って行って揚げると、凧は高く揚がるんです。大人の人が大凧を揚げています。「ブーン、ブーン」という凧のうなりが勇壮でした。たくさんの大凧小凧がうなりをあげながら、競争するかのように高く揚がる様は忘れられない岩見沢の風物詩でした。古川の元町側は、鉄道官舎と元町を分断するかたちで、干上がった川がそのまま残されており、人々はこの
川を上り下りして通行していたと記憶しています。
古川の話が長くなり過ぎましたが、私が生まれた川向鉄道官舎は、幾春別川に背を向けて建っていましたから裏口から外に出ると直ぐ堤防になっています。でも、堤防は急斜面の上にイタドリ等沢山の野草が生い茂っていて、川の流れははるか下にありましたから、のぞくことはできませんでした。でも、4,5歳のころ、幾春別川がはん濫した時のことが網膜に強く焼き付いております。黄土色の濁流が裏の堤防すれすれまであふれ、木や木材、わらぶきの小屋、作物などが流れていて、子供心にこわい思いをしました。
父が死んで、北本町に移ってからは、川向橋にかかわる思い出になります。川向橋の元町側に佐々木さんという農機具店があって、そこから川に下りて行くことができます。炭鉱地帯を通って流れてくるこの川は、川岸が砂地で子供たちの泳ぎ場でした。私はこの川で水泳ができるようになりました。泳ぎ疲れると、砂の上に大の字なって寝転び青く澄んだ大空を眺めます。また、オチンポに砂を積んでオシッコをすると噴水になって面白く、こうして、子供達は幾春別川の恵みの中で大らかに育てられました。
また、大人たちは長い竿に金属製の編みカゴを付けた道具で川をさらいます。そうすると、砂や砂利に混じって石炭が取れるのです。これは「川炭」と呼ばれ、自家用にしたり売ったりして庶民は生活を支えていました。
川向橋を渡って北本町に入るとすぐ左に入る小路があって、そこを入ると北本町小学校の通用口がありました。北本町小学校は今の北本町西1丁目に北向きに建っていたと思います。向かいに米の検査所があり、東隣の角は庄野さんという雑穀屋、その斜め向かいは、今の地図では長谷川商店になっていますが、太田さんという床屋でした。
小学校の裏は広い校庭で、屋外での体操・運動会・夏休みのラジオ体操が行われ、また、子供達の遊び場でもありました。
校庭の外れを幾春別川が流れ、ここも堤防の下がドンキ程ではないが砂地でした。この堤防下にはネコヤナギやかん木・イタドリ・グスベリ等が自生していましたが、このほか、土の中にキクイモが自生していて、祖父に連れられキクイモ掘りをしました。キクイモは清酒か酒かすに漬けて食べるとこりこりとした歯ざわりで大変おいしいものです。
幾春別川は、また、冬の雪捨て場にも利用されていました。当時は除雪車などなく、一般家庭で雪を捨てることもなかったのですが、商店などではその必要があったのでしょう。馬そりに山のように積んで雪を川向橋から捨てていました。
幾春別川の思い出は尽きません。こうして書いていて、この川がいかに自分にとって身近であったかを思い起こします。今の子供達では到底経験できない「冒険」や「遊び」によって培われてきたことの多いことをしみじみ思います。その中で「自己防衛本能」も磨き上げられた訳です。自然を少しでも残して、子供が親しめる水辺を作ってやりたいものですね。