幾春別川に囲まれた鉄道官舎
昭和 7年当時、幾春別川は、元町から北本町へ渡る川向橋(現・狩野橋)を下って直ぐに南へ急角度に折れ曲って、あたかもギリシャ文字のΩの形をなぞるように蛇行していた。その袋状の川は、元町踏切のあたりから岩見沢駅構内の鉄道線路に近接していた。その辺りの堤防に、機関車や修理工場の用水を汲み上げるレンガ製の大きな円筒形井戸が設置され、言葉の意味はわからないが、人々はそれを「ドンキ」と呼んでいた。
私は、この袋状に囲まれた、川向鉄道官舎群の一隅で10歳までの時期を過ごしたのである。私が昭和 7年に入学した学校は北本町尋常小学校で、家から学校へは地続きであったので橋を渡る必要がなかった。橋を渡るのは、元町へ出るときに渡る川向橋と、北部へ行くときに渡る吊り橋であった。それが昭和10年から始まったショート・カット工事によって、川向橋のあたりから小学校と鉄道官舎の間に新たに川を掘削して短絡し、袋状の部分は古川に変わってしまった。
私の父は、岩見沢機関区に勤めていた。鉄道官舎群はどの位の戸数があったか定かではないが、多分、60戸位のものではなかったかと思う。私の家は川向橋の方から吊り橋へ通ずる大きな道路と北側の堤防にはさまれた、機関区職員用の3棟の中の1戸であった。家の裏にはすぐ堤防が横たわっていたが、そこから川へ下りる途中のゆるやかな斜面には、隣同志で耕した小さな花畑と菜園があった。母が野菜を取りがてらよく青虫を退治し、私にも捕るよう命じたが、素手でつまむ青虫の感触の気持ち悪さに私はすぐ逃げ出したものである。
子どもの遊び場だった堤防
鉄道官舎群の子どもたちにとっては、周囲を川が包囲する環境はユニークなものであり、延々と連なる堤防とそこから川辺に下りる斜面は、子どもならではの遊びを大いに楽しめる場所であった。この川で子どもの事故が起きたことを私は記憶していないが、幾春別方面の炭礦地帯を通ってきた川水が黒ずんでいたためか、親達は川辺に近づかぬように、子どもたちに口やかましく注意を与えていた。しかし、、私たちにとっては、川そのものよりも、堤防の斜面は、夏は密生するイタドリや野草の中にもぐり込んで秘密の城を作り、城とり合戦をやる戦場であり、冬は、氷の張った川面に向かって一気に滑り降りるスキー場であった。
昭和7年の水害
1年を通じて私たちの遊び場である川は、馴れ親しむ思いこそあれ、少しも恐さを感じるものではなかったが、昭和7年、私が1年生の時に体験した水害は、私に恐怖を覚えさせた。 9月上旬の大雨続きで、またたく間に川水が増え、堤防近くまで水位が上がり、大きな流木などが流れてくるのを見たとき、私は恐くなって「川が海になった」と家に駆け込んだものである。官舎群の大人たちは救護隊の人たちと頻繁に堤防を見回っていたが、危険とみて子どもたちを非難させることにしたのだろう。私の家でも、私のほか姉や弟が急遽親戚の家に連れて行かれたことを憶えている。昭和36年発行の「岩見沢市史」を見ると、このときの水害の状況はつぎのようなものである。
9月10日の夕刻、幌内附近では溜池が全部決潰したため、奔流が幾春別川に流れ込み、橋はほとんど流失するという事態になり、岩見沢の出水も時間の問題になった。岩見沢の東部にある岡山橋附近では堤防が決潰し、市街地の南は東西に貫流する利根別川に濁流がなだれ込んだため、町はこの川の流域の住民に避難警報を発した。幾春別川もやがて元町・大倉コークス附近の堤防が三カ所決潰しはじめたが、救護隊・在郷軍人・青年団員等の必死の防護作業でわずかに決潰を免れた。しかし、下流の西川向、北部の堤防が決潰し、また、利根別川が氾濫して夕張通りの利根別橋が濁流に没するという状況になった。翌11日の朝になって、幾春別川はようやく危険を脱したが、利根別川の氾濫は市街地の南東部に広く出水して、道路は川のように濁流が奔騰したという。
この頃の河川は、改良が施されていない原始河川部分が多かったせいか、岩見沢ではたびたび水害に見舞われた記録があり、中でも、この水害は最大規模のものであった。これに懲りてか、関係機関も対策を急ぐことになったようで、昭和10年に、鉄道官舎を袋状に囲んで蛇行する幾春別川の根元部分をショート・カットする掘削工事が開始された。これは、昭和19年までかかった大工事であった。
幾春別川切替工事
この河川改修工事は、岩見沢市史によれば、幾春別川・幌向川改修工事の一環として施工されたもののようで、幾春別川についてみると、排水掘削工事・切替工事・堤防盛土・護岸工事・道路付替工事などが昭和10年から19年わたって行われたと記録されている。鉄道官舎と小学校の境にショート・カットの新しい川筋を作った工事が含まれていたことは確かである。昭和10年は私の 4年生の年だが、土工夫たちが夕方引き揚げた後の工事現場で、土砂運搬用のトロッコに乗って遊んだ記憶がある。工事が進捗して行く中で、鉄道官舎から元町へ出る道路が、古川となっていた部分を埋め立てて造成されたのが、記憶上では昭和12年のようであるが、これらの工事がいつ、どのよに行われたのか、私の記憶には残っていない。
北本町小学校と鉄道官舎の在った所は、今は切り立った斜面をもつ護岸築堤と、その下部を流れる水勢の強い川によって完全に隔離されている。また、古川になった部分は次第に埋められ、われわれの遊び場だった堤防もとりこわされて、新しい用地が開発されているようである。
鉄道官舎を去る
昭和11年2月下旬、父は40歳の若さで病死し、70歳の祖父と母、そして12歳の姉を頭に男2人女3人の5人の子どもたちがとり遺された。私はその時、尋常科4年を終えようとする10歳の子どもであった。
父の生前の折にふれての思い出は数多くあるが、その人柄は総じて温和かつ理性的で、父に叱られた記憶はほとんどない。後年、かつて父と職場が同じだったという人から、父は職務に関する試験をつぎつぎとパスし、判任官に昇任するのが、年齢の割りにとても早かったと聞いたことがある。父は大変な読書家で、その死後、鉄道官舎をを去って北本町に移転する際、蔵書だけでも馬車に 2台以上あったと母がよく言っていたものである。
そんな父から、私は物の色について教えられたことがあり、今も鮮明に憶えている。父がゆらせているタバコの煙を見ていた私が「なぜ煙の色が紫から白に変わるのだろう」と質問したところ、父は「本当は煙に色というものはないんだよ」と言って、小学生の私を驚かせた。父の説明は、要約すればこうであった。「物が紫や白に見えるのは、物そのものの色ではなく、光が物に当たって反射した光を人間が見て感じたものなのだ。物によって反射の仕方が違うので、紫に見えたり、白く見えたりするのだ。煙も立ち昇るとき、濃さや温度が変わるから、色も変わるように見えるのだ」と。この父の言葉を当時の私が完全に理解したとは思えないが、成長の過程で物事を考える重要な基盤となったような気がする。つまり、物事は見たままの表面的な受け止め方ではだめで、その本質的なものをさぐらなければ、本当の姿は見極められない、という考え方である。
父の死は、幼い私にも悲しく、さびしかった。私は思い出多い官舎と堤防に別れを告げる前の日、まだ氷の厚く張った川でスキーを楽しんだ。もう、ここでスキーを滑ることができないという思いを抱きながら、何回も滑った。川の斜面はまだ冬景色だったが、あちこちに猫柳の芽がふく
らんでいて、やがてめぐって来る春の近さを告げていた。