ドンキのこと
元の幾春別川は、川向橋(現・狩野橋)から左に曲がって元町の裏手を直進し、線路の護岸用の大きな石垣にぶつかって右に曲がっていた。その線路に沿って、更に右に曲がった所の水中に、レンガ造りの直径5,6メートルのマンホールがあった。
その下手に,川の水嵩を上げる川幅一杯の堰堤が設けられていた(線路の反対側は沖積み土なので、何度となく崩れては拡げられ、遂には川幅が一段と広がっていた)。
今となっては推測であるが、レンガ造りのマンホールから揚げ水した川水を、地上の一段と高い所の濾過池に送る、濾過した川水を更にポンプで高所の揚水タンクに圧し上げる。そして、その水圧を利用して、各工場用水や機関車用水に使用したものではないかと思われる。
この工場用水は、飲料用水には適しなかったので、上水道が出来るまでは (明治41年完成)、札幌水を補給していた。このドンキ(揚水場)も、昭和 4年に北海道潅漑溝が完成し、そこから工場用水や機関車用水が取れるようになったので、使命を終えて廃止となった。
その後、ドンキの施設は、そのままの状態で放置されていた。夏は、子供のカクレンボや遊び場になったり、冬期は、ドンキの坂といって、濾過池の上から川底までのスロープは格好のスキー場となり、随分とスキーヤーで賑わったものである。
石垣と地蔵さん
石垣の所は、水流の関係で特に深くなっていたので、夏の川水が少ない時は、唯一の水泳場となっていた。
水泳が上手になると、石垣から飛び込んで泳ぐようになる。新前の子供や様子のわからない者は、この石垣の深みでよく溺れた。それで、その供養と、また溺死防止にと、地蔵さんが川に向かって立てられていた。
石垣の上流には、鉄道官舎から元町へ出る木の橋があって、よく、この橋の上から、石垣で泳ぐ子供を監視したりして事故防止に協力していた。この木橋も、大正14年6月5日の岩見沢大火で火の粉をかぶったが、その後も使われ、やがて姿を消してしまった。
かに捕り
かには、石垣の積み石の程よい隙間に身をかくしていた。またドンキの堰堤の石垣にもいた。ミガキニシンや鮭の頭を釣り糸に付けて釣り上げ、近くに引き寄せてからタモで掬い上げる。
ある夏の午後、兄と友人の 3人で水枯れの川に行った。綺麗なぬるま湯がちょろちょろと流れ、かに捕りには絶好の日和だった。石油缶やガラスのかけらで足を切るので、ズック靴を履いてドンキの堰堤から川下へと向かった。
釣り橋を過ぎて右に曲がる角に、少しずづだが跡切れずに清水の湧いてる所があった。夏の水泳ぎには、埋めた桶の清水をよく飲んだものである。この清水は、飲料水のない当時としては、それは貴重な水源だった。清水の水脈は、付近の5,6軒の井戸水を満たしていたが、それ以外の水脈は跡切れていた。
清水の湧く対岸に、アカダモの大きな枯木があった。よく黄色のタモキノコ(タモギダケ)が上部の股の所に生えていたが、太くて高い木なので登りきれず、いつも下から眺めて採りたいなアと言い合ったものだ。
かに捕りは、先ずかにの穴に手を入れるか、足で探り当てるかである。かには川の粘土地に穴を掘るか、または、埋もれ木の穴や流木の隙間に身を寄せている。穴の奥に二つの鋏を前にしてかくれているので、鋏に触れないように注意して、足や甲羅を捕まえて引き出す。埋もれ木や流木で穴のある場所は、両手で穴を塞いで捕る。またこの様に両方の穴が通じているときは、よく鮒が入っているので、手で捕まえることができた。
また、かに捕りをしたのはドンキの堰堤から西新橋までの間だった。三人で行った時は、石油缶に一杯と鮒十数匹を捕ったものである。
流し針でウグイ釣り
雨が降って川の水が半分くらい増水した夕方、北盛橋の50メートルぐらい下流のところで細引きに泥鰌を付けたウグイ針(10本ぐらい)に錘を付けて、川の中に投げ入れて置く。翌日早朝には流し針を引き上げると、6寸以上のウグイが3,4匹は釣れたものだった。当時はどこの下水でもエサになる小さな泥鰌が沢山とれた。
埋もれ木
北盛橋の下流 100メートルくらいの左岸の断層に一抱えもあろうという大木が、原始林の様相そのままに埋もれていた。樹種からみると、なら・くり・あかだも・やちだも・せん・いちい・松類、その他が多いようだった。
特に西新橋の上方では、大木の埋もれた木が多く見受けられた。この埋もれた木を使って、柱や階段等の建築用材として使った人もいると聞いている。
栗の大木
北5条西7丁目か、今の「かわかぜ公園」付近の河川敷に、二抱え程もある栗の大木が3, 4本生えていて、よく栗拾いに行ったものである。それが、河川の切り替え工事でなくなった。その栗の大木が姿を消したので、昔を物語る思い出は、もう北地区には何一つ残ってない。
水害
春の雪どけ水と秋の長雨によって幾春別川が増水し、北盛橋の下流の北3条側では堤防がよく切れた。対岸の北本町側も、堤防監視に一生懸命だったが、先に切れたほうが負けで被害が出た。
春より秋の水害の方が多く、それだけに、農作物の被害も大きかった。ある時、雨降り後に裏の畑の様子を見に行った。何でもないのに、ネズミが数匹走ってくるのに出会った。それから間もなく、何時もの所で堤防が切れて出水となった。
ネズミは出水を予知していち早く逃げ始めたらしい。私は大きな南瓜を蔓から切り離して、リヤカーに積んで家に運んだ。2度目に行った時は、もう水で通れなかった。
水が引いてから畑の様子を見に行くと、蔓を切った南瓜は流されていたが、切ってなかった南瓜は残っていた。流れてきた玉葱や小豆・大豆が畑一面に散らばっていた。上流から流れて来たものだった。
特に水害で心に残るのは、昭和18年 9月12日の大水害だった。これは座談会でも話をした通りである。私の家は地盤が低く、上のどこで切れても水が浸いた。昭和37年に家を新築した時、水害に懲りた経験から基礎地盤をぐんと上げて建築した。
桂沢ダムの完成以後
昭和32年の桂沢ダムの完成によって、春秋の水害の心配も一切なくなり、飲料水も上水道となり、ダムの恩恵には計り知れないものがある。
迂回していた川も直線に近くなり、川幅も広くなって流れがよくなった。今は川遊びもないが、小学校にはプールが設置されて、川での水死事故も無くなった。
狩野橋から迂回して北盛橋に通じる間の幾春別川も、昭和40年頃から切り替えられ、古川となった旧幾春別川も漸次埋め立てられていった。あの石垣も、ドンキも、濾過池やマンホール、ドンキの板や堰堤も一面が平地に整備され、思い出は一切土の下に隠れてしまった。今はその上に、寺や保育園が建設され、園児達が嬉々として遊んでいる。