幾春別川の今昔
岩見沢市   澤田 巖
遊び
私の子供の頃(大正9年頃)の大川の両岸は、太古のままの鬱蒼とした所だった。虎杖や笹、柳や桑の木が密生していて、川向こうの景色は見えなかった。
5月になると、川向土功の潅漑溝に水が入るが、川の方はチョロチョロくらいしか水が流れない。川には、八目鰻や蟹や川蝦が沢山いた。
近くの腕白友達と、軒に下げてある身欠鰊を1本持って川に行く。先輩に倣い、和服の帯の縁の方を引き裂いて釣り紐を作る。鰊を10センチ程度に切って、紐の先に結わえて砂原からポーンと水中に投げ入れる。遠くへ投げるときは、先に石塊を結んだものだ。少し間をおいて、紐を少しずつ少しずつ手繰ると、大抵蟹が食い付いてくる。それを浅瀬迄引き寄せて捕らえるのだ。面白いので薮蚊や虻・蚋に攻められ乍も、随分やったものだ。釣り紐を無くして仕舞うと、また帯を裂くので、帯がだんだん細くなり、母によく叱られたものだ。
川に入ると、川蝦が脚を目がけてツンツンと突き当たるほどいた。納屋から篩いを持ち出して、後ずさりし乍ら掬った。そんなとき、青い綺麗な翡翠が、柳の枝から流れに向かって飛ぶ事もあった。
暑い夏になると、真っ裸での水遊びになる。そのうちに何時しか体が浮くようになって、犬掻きで泳いだり、潜ったりするのが上手になってくる。水遊びにも飽きると、岸の粘土を採ってきて捏ね物を作って遊ぶ。
川原は、まるで子供の天国で、夕暮れ近く迄、甲高い声が弾んでいた。たまのことだが、水に潜った子供が分からなくなり、近所の大人たちを大騒ぎさせたり、親を泣かせた者も何人かいた。
草むらには、きりぎりすや蟋蟀や蝗・ 蛙がおり、稀には蛇、柳の古木には鍬形虫がいて、よい玩具になった。夕暮れの道端には蛍が光り、捕まえて長葱の筒に入れて遊んだりもした。冬になって川が凍ってからは、手製の橇で、岸の斜面を雪に塗れて滑った。

築堤
大正11年頃だったろうか、川の両岸の部落の人が総出で、何日もかかって水害防止の土手造りをしたのを見た。地形によっては、モッコ畚で土を盛ったという話も父から聞いた。

雉との出会い
昭和23年4月、毎朝早く柳の森で雉が甲高い声で鳴いていた。或る時、庭先の陽当りのよい所に筵を敷き、娘を遊ばせ乍ら農作業をしていると、大きな雉が飛んで来て、娘のオカッパ頭に止まった。娘が驚いて大声で泣き出すと、雉も驚いて森の方に飛び去ったことがあった。

熊との対面
昭和27年11月初め、川の近くの畑で一人で農作業をしていた徳さんが、ザワーと笹薮で音がしたので、その方を見ると、真っ黒な顔の熊がニューと顔を出した。仰天して「熊だァ」と大声を上げると、向こうも驚いて、笹薮に身を翻した。その後、耳を澄ましても、何の音も聞こえなかった。実行組合の集まりの時に、息を弾ませ乍ら、皆に聞かせた徳さんの話である。
多分、三笠の山から川伝いに下って来た熊だろうとの話だった。

川炭拾いの思い出
私が10歳位(大正13年頃)の時、雨後の2,3日は畑作業が出来ないので、父母は、ジョレンや篩を担いで川炭拾いに行った。或る時は、兄夫婦と共に三夫婦で本家の裏で川炭拾いをしていた。男はジョレンで川炭を引き上げ、女は篩で砂や石を洗い分ける。私達子供は、近くの砂原に流木を集めて焚火をする。ジョレンの中の川炭に混じって蟹が上がってくると、伯父さん方が「ソーレ」と言って蟹を砂原に投げてくれる。私は、従兄達とそれを焼いて食べたり、水遊びや角力をとってよく遊んだ。夕方になって親達は、川炭を叺にいれて、重いのを土手の上迄、担ぎ上げる。当時、元気だった伯父伯母、父母も今は亡く、七十余年も前のことになる。
昭和6,7年の頃、12月になると川は凍って、氷の厚さが12センチくらいになる。そうすると、近所の人達と誘い合って、三笠岡山の川向土功の頭首工の上に炭拾いに出かける。ジョレンや篩・穴あけ鉄棒、それに石油の空き缶を加工した窯、古洗面器の湯沸かし、更に炭運び用手橇や林檎の空き箱まで用意する。そして合同の態勢が調うと馬橇で約4キロの現場に運び込む。翌日からは、弁当持ちで連れ立って現場に行く。各自の考えで、氷に格好な穴を開ける。良い場所に当ると、1日 1トンも上げる人がいた。
頭首工には、吸水の為に水中深くコンクリートの堰があり、その上流に砂や炭が溜まる。それを求めて、毎日多くの人が、ここかしこと氷に穴を開けて作業をする。天気の良い日には1日三、四十人もの人が見えた。地元の人、萱野の人、東部落の人、岡山の人達だ。
沢山上げる人がおれば、そこを目がけて穴を掘る。従って、水中で四方から差し入れるジョレンが絡み合い、気合を掛け合って笑ったりする。多くの人が穴を開けるので、数日前の穴に氷が張り、底に雪が降って分からなくなり、水中に落ちた人もある。落ちた途端、水圧で飛び上がる。そこを、襟首を掴んで引き上げる。
運の良い日は、川炭を沢山上げられるが、前に拾った後に当ると、ここも駄目、あそこも駄目と、無駄な穴開けをすることになる。そうなると、橇に道具を積んで、ジプシーとばかりに移動する。顔見知り同士が、湯沸しの窯を囲み、弁当の餅を炙って食べ乍らの語らいも楽しいものの一つ。寒中のことなので、衣服の濡れた所が凍って、鎧を着たようになり、ガワガワと音がして突っ張る。こんな時、濡れた手が金物でもないのに竹竿に凍り付く。
こうして拾った川炭なので、燃料に不自由はしなかったが、小石が混じっていて、ストーブの中で弾けて隙間から飛び出す。幼児を抱いて温まっていると、幼児の顔に火が撥ねたり、着物の間に挟まって燻ったりする。それを見て幼児が泣き叫ぶ。火傷の跡を、後になって気付くということもあった。その時の幼児も、今は70歳のお婆ちゃんになっている。
その川炭も、昭和34年頃には無くなり、ただ思い出だけが流れている。

恐ろしい大水
この地域では、毎年のように9月の初め頃に大雨が降る。それが3,4日もの長雨になると、川から二百メートルも離れている我が家でも、外へ出るとゴーゴーと川鳴りが響いてくる。無気味な川鳴りを聞き乍ら、土手の所へ行くと、川幅いっぱいに盛り上がる黒い濁流が逆巻いて流れ、上流から次々と枯れた虎杖の山や丸太・木の株・板切れ・南瓜・水瓜等が、勢いよく列をなして流れてくる。それらを見ていると眩暈をしそうになる。危険なので土手に腹這いになって見る。大きなうねりが来ると、土手が水圧で震え、なんとも不気味で、その場には長く居られなかった。
昭和45年頃(56歳頃)のこと、竿の先に古鎌や金の鉤を付け、流れて来る丸太や板等、燃やせる物は何でも拾い上げた。
或る時、土手を見回ると川幅いっぱいに水が溢れそうになっていたので、急いで作物の生えている畑土を土手に盛り土した事もあった。また、上流で土手が破れると下流の増水が止まるので、人知れず胸を撫で下ろしたこともある。
このような時は、畑作・稲作農家を問わず、住民は一致協力して空き叺や俵を持ち寄り、土手の弱い所に土俵を積み、補強して土手を守った。またのこと、警戒していたのに大自然の力には抗し切れず、近所で土手が破れたことがある。逆巻く濁流が、作物の生い茂る畑を目がけ怒涛となって畑土を掘り起こして流れた。万事休すだった。大の字の付くものは、すべて恐ろしい。

橋の流失
何年頃のことだったか、今は記憶にないが、川下から現在の北本町東の天理教まえに架かっていた「長平橋」が、また、2キロ上流の東川向と東十二組を繋いだ「十二組橋」の初代と、200メートル上流に架かった二代目「十二組橋」、そのまた1キロ上流に架かっていた「北幾春橋」等が流失した。思い出の中の橋である。

植物のこと
大正9年頃の川の両岸は、先にも書いたが、太古のままの姿で、虎杖や笹・ラッパソウ(ヨブスマソウ)等が生い茂り、更に胡桃・柳・桑・辛夷・シコロ(キハダ)の大木、サビタ(エゾノリウツギ)・山葡萄・コク ワ等、蔓が絡まり昼なお暗い程であった。
5月頃になると、近所のお姉様方と笹の子御飯の材料になる笹の子を採りに行った。また春には、ミズバショウ・エゾニュウ・エゾエンゴサク・ウバユリ・キツリフネ・イラクサ・コゴミ・芹・三つ葉・蕗・蓬・西洋ワサビ等が多くみられ、この中には食べられる野菜が沢山あった。お盆を過ぎる頃には、桑の実が黒くなるのを待ち兼ねて採った。木に登って、指も口も赤くして食べた。
秋になると、胡桃や山葡萄・コクワが熟し、柳の木には茸が、そして、地面の古木にはボリボリ(ナラタケ)が生えた。手篭を提げて露に濡れ乍ら、木の下を屈まって歩いた。

幾春別川切り替え工事に出役
昭和20年の春の頃だったろうか、部落の人たち大勢と共に、スコップを担いで川向橋下の現場に行き、人夫として 1日青粘土を掘り起こした。既に水流は切り替えられていて本流に粘土を放ったが、粘土がスコップから放れず苦労した。中には勢い余ってスコップごと川の中に放り込んだ人もあった。本職の人はうまいもので、ホソを水で濡らし乍らやっているのを見て羨ましかった。
切り替え工事の完成後は、元町の家並みの裏を流れていた川がカットされ、それ迄、上流の畑一番地先の幾春別川の古川が塵芥埋立地として使われていたが、次いで、ここも塵芥埋立地として利用されるようになった。
同じ頃、川向橋も架け替え工事が始められ、昭和52年12月に完成。昔の渡し守・狩野末治を記念して「狩野橋」と命名された。

年毎日毎の変貌
昭和時代になってからは、沢山生えていたミズバショウやコゴミ等、太古からの野草も何時の間にか姿を消してしまった。どこにも茂っていた笹も実が生る度に枯れていった。川も上流にダムが建設されて、恐ろしい洪水の心配も無くなった。川上の炭鉱も時代と共に閉山し、炭塵に塗れた流れも清くなり、砂山も水の澱みも無くなった。昔遊んだ子供達の叫び声も、今は聞けない。
昭和55年4月頃のことだったが、一団の人たちが川の木々を切り倒していった。雪が消えると、平らな所にユンボで深い穴を掘り、沢山な量の倒した木を集めて埋めるのを見て、勿体無い事をするなと思った。その内に各所で切り替えの掘削工事が始められユンボで掘った土を、大型ダンプで運び去る。余り人影が見えないのに、大型土木機械を駆使して川の出っ張りを削ったり、或いは掘り抜いて、水流を止めずに作業が進められた。素掘りが終わった所から、鋼矢板が岸に打ち込まれ、法面はコンクリート板で敷き固められた。それからは、鳥の囀りの声も無く、巣をかける枝も無い。
最近になって、両岸の巡視路に種々の樹木が植えられてきた。所々に小公園を造り、サイクリングも出来ると市の広報に出ていたが、一昨秋からこの川の北本町先で、鮭の遡上が認められるようになった。今年(平成5年)は、市内の学校で稚魚を育てて、先頃放流したとの報道がなされた。4年後には、私共の眼にも故郷に帰った鮭の姿が見られるようになるかも知れない。
昔は、田畑の作業の時に、人馬を悩ませた蚊や蚋・虻が、また、燕麦・麦・亜麻畑、そして草原にいた蟋蟀、川の木にいた鍬形虫や玉虫 、稲田の蝗等もいなくなった。
振り返ってみると80年が過ぎた。何もかも変わってしまった。環境 も人情も生活も……。 
    平成5年記

BEFORE NEXT

HOME BACK