私達と幾春別川
岩見沢市   森 辰吉
はじめに
祖父・又平が、四国の徳島から旧郁春別川向33番地(現在の稔町462番地)に移り住んで、やがて115年余になります。
多少の年月のずれはありますが、四国・熊本・鳥取などの人達も入植し、その戸数は40戸余り。これらの人達は今も幾春別川の堤防通りで営農を続けております。現在四代目・五代目の人達が、この流れを見ながら暮らしています。
JR函館本線は、その昔、空知線と言っていました。北本町から上流に向かって約6キロくらいの所に、鉄橋が架かっていました。
この6キロ程の川寄りの所に、桂の木の古株が三カ所にわたって残っていました。大人が3,4人で抱えるくらいの太さです。それは現在の稔町664番地・438番地・248番地の三カ所で、大正10年頃までその跡が残っておりました。この桂が、このままの太さで成木になった時を想像すると、畏敬の念を抱かざるを得ません。
古老から聞いた話ですが、桂は余程肥えた土でないと生長しないと言うことです。私達の住んでいるこの幾春別川の堤防地は、最高の土地といえます。
今、四代目・五代目が玉葱作りを続けていますが、その昔は、岩見沢でも唯一の野菜作り地帯でした。そして現在、市で一番の玉葱作り地帯になっています。そういうことで、堤防通りの人達は、幾春別川に大きな感謝をしなければならないと思います。私はこの堤防通りで生まれ、川で水と遊び、小魚と遊んで育ってきました。
祖父がこの堤防通りに住んだのが、明治20年の前半と聞いておりますが、その当時は、幾春別川の上流で洗炭されていたとはいえ、川の水はまだ綺麗だったと言います。また母が福井からこの地に来たのが明治30年頃でしたが、その頃も、沢山の秋味が上がってきていたと言っておりました。私が遊んだ小魚とは違うのでした。
明治38年に、旧川向土功組合(現在 岩見沢土地改良区)が、岡山部落の幾春別川に潅漑用の川向頭首工を完成させました。
この頭首工の完成でその後、下流地域に三千余町歩の水田が開かれました。この頭首工の築堤箇所の全部に、桜の木が植えられました。私が小学生の頃には、一抱えもある桜の木に生長して、春には美事な花が咲きました。その頃の町では、唯一の花見の場所でした。子供ながらにも、花見遠足をしたことを覚えております。
先にも書いたように、川向頭首工は、明治38年に完成しましたが、昭和35年に、この頭首工の改修工事が行われ、昔のような頭首工の姿は無くなりました。それによって、楽しい花見も出来なくなりました。
鉄橋から下流の北本町までの堤防地は、間口五十間、奥行百間の五千坪毎に区画されていました。この区割りを囲むように潅漑溝幹線が掘られ、その潅漑溝から幾春別川に向かって、3本の排水路が掘られていました。現在残って機能しているのは、鉄橋 の所と北本町4丁目・5丁目の境にある2本だけです。幾春別川が溢れると逆流の心配がありました。これらの排水路は勧業排水放水路と呼ばれていました。現在の岩見沢土地改良区の潅漑幹線は、この勧業排水放水路を基幹にして、掘られたものです。
幾春別川は、三笠から下流は泥川でした。長い間に、自然の流れや洪水などの繰り返しで両岸が抉られ、幾十尺もの断崖絶壁の川になっている所もありました。
その絶壁の中程には、一抱えもあるヤチダモの倒木が顔を出し、川底にも流木や根木が沢山ありました。渇水期になると、それを引き上げて干し、引き割った薪を、夏の燃料にしたものです。
川の両岸には、イタヤ(イタヤカエデ)・ハンノキ・シコロ(キハダ)・ニレ(アカダモ)・ミズキ、キタコブシ・ガンビ(シラカバ)・タラノキなどの大木が、水面を覆うように茂っていました。それにヤマブドウやコクワ(サルナシ)が絡まり、秋になると木の実を腹一杯に食べることが出来ました。また堤防地のいたる所に、桑の木が残っていましたので、これも秋口に実が黒く色付くと、唇が紫になる程食べました。
何故、桑の木が育っていたのか。そのことを母から聞いたことがあります。その昔、ここでも養蚕が盛んに行われて繭の出荷がされていた、ということです。私が小学生の頃、母が繭から真綿を取っていたのを思い出します。

川炭拾い
両岸の農家の人達は、夏は雨が降り、農作業の出来ない日、冬場は、川に氷が張って危なくなくなってから、川炭拾いをしました。
夏は川の砂の溜った曲がり角の所で、冬は氷に四角い穴を開けて、それぞれ専門の道具を使って、水の中から川炭を上げます。
上げた川炭は、ひとまず足もとに置きます。夕方になって、溜った川炭を肥料の空き叺に入れて、土手の上まで担ぎ上げます。両岸は絶壁ですから、上りやすくするために、先に道を付けます。女の人達も、にわか作りの坂道を上がるのですから、この方が拾うより大変だったようです。冬場は岡山の頭首工の上流まで、約8キロ余りの道を通いました。
どの農家の庭先にも石炭の山が出来、その山に草が生える程、貯炭したものです。有り難いことでした。焚物には不自由をしませんでした。不思議に思ったことは、頭首工から下流には大きな出水もないのに、毎年かなりの量の川炭が取れたと言うことです。
この川炭拾いも、桂沢ダムの完成で昭和32年で終わりになりました。
流量の調整で、ダムの放水が頻繁に行われ絶えず水量が変わるので、冬場には氷が張らなくなりました。また、川の護岸工事が行われ、直線に近い流れになったので、砂の溜り場もなくなりました。親の代から続いた堤防通りの名物だった川炭拾いも、今は思い出の1つになってしまいました。

子供達の遊び場
頭首工から水が揚げられるのは、春の4月から9月頃までの約4カ月間。この間、下流は渇水期に入ります。この4 カ月間の川原が、子供達の天国の場になります。いたる所に細流が出来、淵が生まれる。冬場、川炭を上げた擂鉢状の水溜りは、格好のプールになる。
水溜りにはウグイ・フナ・カニ・川エビなどが沢山いた。水溜りに足を膝まで付けていると、川エビが寄ってきて突くくらいおりました。
流木や根木の下にはカニがいて、手掴み出来ました。また紐に身欠きニシンの頭を縛り付け、水の中に入れていると、いくらでもカニが釣れました。
土用の暑い日に、このプールに馬を水浴びに連れて行くとアブやサシハエに刺されました。
子供達が学校から帰ってきて、その姿が見えないときは、間違いなく川原にいた。彼らを探しに行き土手に上がってみても、声は聞こえてくるが、姿は見えない。大木が川の面を覆い、ササやイタドリが密生していたからです。
子供達が川原に下りて行く道は、このイタドリやササのトンネルになっています。トンネルの道は、区間に3,4 カ所位しかなかった。それは下りの勾配の程度と、イタドリやササの密生の関係から、そう簡単にはトンネルの道が出来なかった。昔からの人たちが通って出来た道でした。
夏の暑い日のことでした。このトンネルの道を下りて行く途中で、青大将が長ながと日向ぼっこをしているのに出会い、びっくりしたことがありました。
トンネルを潜って下りて行くと、小さいのは5,6 歳から小学校年長組まで10人程がいる。生まれたままの姿で、砂まみれになって甲羅干しをしている者、プールで泳いでいる者、みんなそれぞれの遊びを楽しんでいる。
年長のなかにはボスがいて、彼はこの一族をしっかりとガードしている。だから、ここでの水遊びには水の事故は無かった。家の者達も、こんな姿の遊びを知っているので、安心して黙認していた。だが、たまたま或る日、二人で川に下りて行き、一人が深みに嵌まるという出来事もありました。
年長組が、連中を連れてカニ取りに出掛ける事もありました。家から馬穴を持ち出してくる。流木や川底にある倒木の根方から掴んだり、カニのあなに手を入れて、大きな奴を引っ張り出す。次のトンネル道までの約1キロの間で、一斗馬穴に大方七分目位の漁だった。途中、小さな女の子が歩き疲れて愚図り出す。ボズがその女の子を背負って行く。ボズの庭先で、茹でて食べたカニの味は、今も忘れていない。
冬になり、雪が積もって川面に氷が張る。氷の上が危なくなると、冬の川炭拾いと子供達のスキー遊びが始まる。急な崖から滑ると、向こう岸の中ほどまで上がって行く。直滑降や木立の間の回転も出来ました。
この頃のスキー道具の値段は高価で、私達には与えて貰うことが出来なかった。台だけ買う者、それも叶えられない者は、手製のものを作る。長靴の先だけ入る金具を付け、皮バンドで固定する者、バンドの代わりに、その頃唯一の冬場の交通機関だった馬橇の梶棒を縛る鞣し革を拝借して、長靴を縛ったりしました。ストックは、当時、キウリやトマトが多く作られていたので、その手竹に使う根曲竹を使いました。手竹の中から手頃なものを選んで、ブドウの蔓などで巻いた手製でした。そうして作った道具は、決して立派なものではなかったが、子供達は転びもせず、川のスロープで結構上手に滑り、冬を楽しんできました。

洪水
物心が付いてから、幾春別川の洪水は何度もありました。明治31年と34年の洪水で、勧業排水路から逆流して、北本町一帯が水害に見まわれたと、『元町の思い出』に書かれている。
先輩の人たちが造った区域の土手は、誠に頑丈でした。川の水が、その土手を乗り越す状況が幾度もありましたが、堤防通りの土手は毎回その難を逃れる事が出来ました。この外に、岡山町の方の土手が切れたり、東町の方が溢れ出したり、また、北本町の一部が決壊したりしました。
だが、一度だけ直接ではなかったが、堤防通りの一部の玉葱作りの農家が、水害を蒙った事がありました。昭和40年8月、集中豪雨で岡山町の土手が決壊し、溢れ出た水が岩見沢土地改良区の潅漑溝に流入、トラフの倒伏によって、一部の玉葱畑に湛水の被害が出ました。これが改良区と損害賠償問題の訴訟事件に発展、5年後に和解したことがありました。

桂沢ダムの完成
ダムの完成に先立って、昭和31年7月1日から、ダムの流量調節の放水が始まり、頭首工下流の流れが変わりました。
1日に2回の流量調節によって、かなりの水が放流されますので、今までの4月から9月迄の渇水期が無くなりました。
流量の調節が始まってから、せせらぎも、淵も砂場も消えてしまい、子供達の遊びも、川炭拾いも二度と見られなくなりました。カニ釣りも魚釣りも、夏場の川炭拾いも思い出になった。

河川の改修
昭和46年に、新川橋上流の改修が始まり、昭和62年に、川向頭首工付近までの改修が完了しました。
昭和51年から始まった、岩見沢市街の護岸工事は、狩野橋から上流に向かって施工され、曲がった箇所はカットされて、直線に近い川になりました。
この護岸工事が施工されてから、幾春別川の流れと姿が一変してしまった。川の水面まで覆いかぶっていた大木は、一本も残らず切り倒された。そして川岸は、コンクリートと鉄板で固められた。自然の川岸が消えてしまった。
崖の中腹には、湧水の場所がいくつもありました。そして、狭いながらも小さな湿地帯があり、ミズバショウが生え、ガマが穂を付けていました。また、水草が川岸まで育ち、小さな虫がいて、小鳥の餌場になっていた所もたくさんあった。こんな自然の場も、ついに無くなった。
その昔、対岸の人達や建物は全く見えなかったが、今は誰が何をしているかが、手に取るように見えます。川岸の木が無くなる前は、季節毎に来ていた小鳥達の姿も、今は、全く見かけない。
その頃は、夏にシマアオジ・オオヨシキリ・三光鳥(イカル)もたまに鳴いていた。秋になるとイスカ・ベニヒワ・カワラヒワ・マヒワ・キツツキ(アカゲラ)たちの声も聞こえた。
夏、泳いでいてふと顔を上げると、流木の枝にカワセミがいた。また、イタドリやササやぶのかげから、忙しそうなミソサザイが、可愛い姿を見せてくれた。このミソサザイも、木の無い堤防では住めないのだ。残念ながらゴジュウカラもシジュウカラも、この幾春別川から姿を消してしまった。

思い出の草花
北海道新聞社から、『北海道の植物・野の花』が出版されました。それで、幾春別川の堤防に植生していた草花を思い浮かべ、写真と照合してみた。
フクジュソウ 日当たりの良い所に、早春、黄色い花を咲かせていた。
エゾエンゴサク 堤防地の、余りササの無い原っぱに、うす紫の花が咲いていた。
ミズバショウ(ヘビノマクラ) 崖の中腹の湧水のある湿地で見かけた。
ワサビ 堤防地の至る所に自生していた。今は、全く区域内では見られない。
スミレ ササやぶの端の所や、広場の雑草の中に可憐な紫の花を咲かせていた。
ネコノメソウ 綺麗な花ではないが、大木の根方に咲いていた。
ハコベラ(ハコベ) 旺盛な繁殖力で、畑まで進出し、雑草として手こずった。
ナズナ(ペンペングサ) たまたま見かけた。実が三角形で、熟すと弾けた。
マイヅルソウ 根茎が這い、繁殖力の強い草。
オオバコ 至る所で見かけた雑草。今は余り気付かない。
オオアワガエリ(チモシー) 馬や羊の飼料にしたが、余り好んで食べなかった。
ダイコンソウ 黄色い花を付け、毒草のキンポウゲとよく間違える。
ワタスゲ 余り多くは見かけなかったが、湧水の所で見かけた。
ハイキンポウゲ 草地の中で、この黄色い花がよく目立った。毒草なので、家畜には絶対に与えなかった。
オカトラノオ 余り見栄えのしない花だった。
アカザ 若芽をお浸しにして食べた。丈夫な草で、太くなった茎は、ステッキの代わりになった。
アザミ 葉は硬くトゲがあり、花形が変わっていて割と美しく咲いた。
ゲンノショウコ 昔から医者いらずと言われ、茎葉を干して腹痛や下痢止めに用いた。
ウド ササの切れ間や、崖の中腹などで見かけた。
オモダカ 白い花を付けて、湧水の出る所に育っていた。
ガマ 繁殖力の強い草で、湿地の所に成育していた。この穂を乾燥して、石油を吸わせ松明にして遊んだ。
アキメヒシバ この実も弾けて増えていくので、嫌われものだった。
エノコログサ(ネコジャラシ) 堤防地のどこにでも生えていた嫌われもの。
カサスゲ 湧水の所や川辺、浅瀬の所で見かけた草。
ハッカ 牧草などと共生していた。余り多くは見かけなかったが、香りがよい。
イノコズチ 堤防地やヤブの中などを歩いて帰ると、衣服に種がしっかりと付いていた。
オオハンゴンソウ この球根を漬物にして食べると、旨いと言われていた。
ハコ 若い葉を摘み取り、干して餅と混ぜて食べることが出来る。
アワダチソウ 堤防地の至る所に生え、よく増える。この球根も漬物になる。
オオヨモギ 若芽を摘んで、草餅にして食べる。
イヌヨモギ オオヨモギとよく似ているが、食べられない。
ネジバナ 余り多くは見かけなかったが、雑草の中にひっそりと咲いているピンクの花が目に付いた。
ヨシ(アシ) 丈夫な草で湿地に多く生育していた。今はほとんど目に付かない。
セリ これも湿地によく生えていた。若い株をお浸しにして食べた。
イラクサ ササやぶの中やイタドリと共生していて、うっかり触ると凄く痒くなる。
オオイヌタデ 至る所に生えていた。房状の赤い花が印象的だった。
ガガイモ 血止め草とも呼んでいた。川で傷などをした時、実の中の種に付いている綿状のものを、血止めに使った。
ホロムイイチゴ ササやぶの中で育っていた。遊んでいて赤い実をよく食べた。
カタバミ 葉や茎をかむと酸っぱい。黄色い花が葉に似ていると思った。
スズメノテッポウ 堤防地の至る所に生えていた。畑に入り込んでくるので農家の嫌われものだった。
ノビネチドリ 雑草の緑の中で、紅色の花が目立ち美しかった。今は絶滅した。
ヒメスイバ 丈夫な草で繁殖力旺盛。若葉は一寸酸っぱいが食べられた。
ノダイオウ 堤防地の至る所に生えていた。この若芽も酸っぱいが、顔をしかめて食べた。
ツユクサ(ホタルグサ)青色の可憐な花が咲いた。
アマチャヅル 今は余り見かけないが、ササやイタドリに巻きついていた。干したものを煎じて漢方薬。
ミソハギ お盆頃にピンクの花が咲いて、綺麗だった。切り花によく使われた。今は全く無いが、種苗店にはある。
この外にも沢山の草花が生育していた。河川の改修で、これらの多くのものが失われたことは、実に寂しい。


川向頭首工からの下流、狩野橋までに六つの橋が架かっていました。
旧岡山橋は、旧国道12号線の滝川、三笠方面行きの十字路の市街地寄りに架けられていました。俗にタイコ橋の名で親しまれました。ここは、明治の初期には渡し舟での往来でした。最初に木橋が架けられたのは、明治24年(東郷土誌)と記録されており、永久橋になったのは、昭和11年6月のことでした。
ところが、国道12号線の路線の変更によって、その少し下流に新岡山橋が出来たのは、昭和54年10月。片側一車線で、両側に歩道の付いた永久橋になりました。
北幾春橋 もともと、ここには橋はありませんでした。この下流2キロ程の所にあった、十二組橋が老朽化して流失。その代替としてこの地に北幾春橋が架けられました。俗に東橋と呼ばれておりましたが、昭和59年11月に二代目の橋が竣工しました。
木橋の時代の昭和16年頃、稔町側の橋のたもとから、馬で川から砂利を上げて、堤防通りに敷いたことを覚えています。9割が砂でした。
また、東橋付近の堤防用地には、軍馬鍛錬場が造られ、軍用馬の調教が盛んに行われておりました。
十二組橋 明治30年の後半頃に、東町の人達が渡し舟で、稔町の堤防地に通い作りをしていたと聞いております。
渡し舟の不便さから、明治40年代に一代目の橋が架けられたのではないか、と言われています。その後、老朽化が進み、危なくなったので、橋のたもとのアカダモ(ハルニレ)の大木に、ワイヤロープでしばらく繋ぎ止められていました。
一代目の橋が無くなると同時に、少し上流に二代目の木橋が架けられました。馬車がやっと一台通れる幅でした。小学生の頃、二代目の橋の上で、東の子供達と一緒にリレー競走をした。二代目がその役目を終えたのは、戦争中の昭和18年頃だと思います。
長平橋 大正14年6月5日の岩見沢大火で、3条西1丁目通りにあった遊郭街も被災し、3軒が焼失しました。このことと風紀上の理由で、昭和3年に元町3条の袋地に移転、7軒が再建されました。この遊郭への出入りはもっぱら元町東2丁目からでした。
長平橋が出来たのは定かでないが、地主の石黒長平さんが、遊客の便を考えて、北本町と遊郭の間にこの橋を架けて寄附した、と元町の昔を語る資料に書かれております。しかし、遊郭の衰退などもあって、老朽化した橋は補修もされず、昭和17年頃撤去されました。
狩野橋
岩見沢市は、元町1番地から発展していきました。大正10年頃のこの付近の川幅は、土手から土手までが今の半分程でした。
現在の永久橋になるまでには、4回(3回木橋、1回鉄橋)の架け替えが行われております。竣工は昭和52年12月でした。

昭和51年から始まった護岸工事で、幾春別川の自然が完全に消えてしまい、昔の面影は、どこを訪ねても見当たりません。巨大な排水溝に様変わりしたのです。
私達は幼い頃から、この川の大きな懐に抱かれて育ち成長してきました。この思いは、私達世代の頭にしっかりと焼きついております。目を閉じると、パノラマのように浮かびます。今の幾春別川を見ながら育った若い人達には、昔の美しかった頃の、この川を想像することは出来ないでしょう。
今、私の家の前の対岸で、3年前から利根別川の消流雪用水導入事業が行われております。併せて公園が造られ、小さな流れや、せせらぎも出来ます。草原もあります。この公園が、やがて市民の新しい憩いの場になることを祈ってやみません。
平成9年9月3日

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