魚染の滝
三笠市   加賀谷 俊蔵
煤田鉄道を経営していた北有社社長・村田堤氏は、幾春別炭山を借区し、幾春別・桂沢・多寒別・吉備の地域、合計130余万坪(438ヘクタール)の貸し下げを受けて、移住民には一戸分として3,000 坪(99アール)を貸し与えて開墾させることとし、同時に市街地区の造成も計画した。
当時の幾春別川は、蛇行部が随所にあって大雨ともなると氾濫することが多かったので、これを最短距離に改修することになり、明治19年に大工事の掘削が下流から始められた。岩丘をダイナマイトで破砕し、それを低沼地へ投入する作業はたいへんな難工事であった。
そんな苦労を積み重ねていた明治21年10月、夜半から開墾以来の大豪雨が襲来し、河川は忽ち大出水によって氾濫。工事中の幾春別川は、すべての工事用資材、重機類等が押し流され、地盤の弱い所は抉られて土砂も流された。また、岩盤の弱い所は残されて、随所に大小の滝が出現した。中でも、現在の「魚染の滝」は、落差も大きく川幅も広い上に、渦を巻いて落下するので、滝壷は深く抉られて複雑な形状となった。
結果的に河川改修工事は、大洪水の力によって大きく前進することになった。
その後も、幾春別地区は人口も増え続け、市街地も狭くなってきた。そこで、河川敷地の開放を炭礦会社に要請交渉を続けたところ、古川を埋め立ることになった。一方では、自然に泥土が流入して低地帯を形状するようになり、地盤が落ち着いてくると、此処に家屋を建築する人も順次増加して、明治の末頃には新市街とも呼ばれるようになった。
残された埋め立て未了地も、中心部は自然の池となり、大正・昭和年代には憩いの遊園池となった。この池は、春・秋のボート遊びや魚釣りに利用され、冬はスケート場として有効に利用された。
ここの「魚染の滝」は、落差も大きく水量も豊なの で、その豪壮な景観は一見に価する。かつて、この滝壷の側に巨木があって白蛇が棲むと言われていたが、明治末期にその巨木を切り倒した。それから、ここでの水難事故が相次いだので、関係する有志の方々によって供養が行われるようになり、その後、祠も建てられ、祭神に妙力竜神を祭って定例的に祭礼を行ってきた。不幸にして災難に遭われた方々への冥福を、ご祈念申し上げている。

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