夏の夜は明けるのが早い。東の空は白み、薄紅が射している。今日も暑くなりそうだ。
カツ江は、朝早く、北本町の幾春別川に架かる川向橋(現在・狩野橋)に向かう。市街地と北本町を結ぶ唯一の橋。川向橋の朽ちた欄干に手を掛け、川面を覗く。川明かりの中、何回も洪水に遭い壊された橋脚の杭が見える。昨日までの水位を現わすかのように杭が濡れている。水嵩が下がっている。川辺の大きな石もむき出しになっている。橋の桁は傷み、敷板のところどころに穴があいて、そこから川面を覗くこともできる。荷馬車が通れるように、車の幅に合わせて部厚な材木板がしかれている。川面から吹きあげる風が、乾いた馬糞を舞いあげた。
幾春別川で川炭を拾える場所は、北本町の橋の下と西新橋の下、それから遊郭の下と遠藤さんの畑の下というように、カツ江はいつも決めていた。今日なら、何処へ行っても川炭が拾える。
鋤簾は、遠藤さんの畑の納屋の横に置いてある。
カツ江は、川の様子を見ると、暑くならないうちにと思い家に戻った。
伸は、玄関の上がり框にどっかりと腰をおろし、馬穴を両足で挟み、ゴショイモの皮を剥いている。白くなるはずのゴショイモの肌が、泥に汚れている伸の手で、黒ずんでいる。
「伸、もっと早よう、できんか」
カツ江は苛々している。
「あぁ、もう少しかかる」
のんびりした声で応える。
「早ようせんと…… 暑くなるのに」
「……」
伸は、相変わらず不器用な手つきでゴショイモの皮を剥いている。
「どうにもならん子や…… 早くしてくれないと、場所がなくなるのに……」
「そうかなァ! かあちゃん、今日はどっちに行く?」
「遠藤さんの畑の下…… そんなことより、もっと早くゴショイモの皮剥いておけ」
「かあちゃん、今日なら何処へ行っても、あいているョ」
「どうしてサ」
「今日はお盆だよ」
「お盆! そうか、お盆か!」
「うちは、誰も来ないけど、みんな墓参りに行ったりするから…… どこでもあいているサ」
「そうだネ」
カツ江はしんみりと伸に応える。
「かあちゃん、それより弁当作ったのか?」
「おうッ、そうそう、すっかり忘れてた。お前があんまり遅いもんだから……」
かつ江は土間に下りて、小桶の中に、伸の手で汚れたゴショイモをいれ、台所の水瓶から柄杓で掬って桶に水を張る。
伸の手で剥かれたゴショイモは、空気に触れてさらに黒くなる。
カツ江は、昨日配給になった澱粉滓を何度も水洗いし、澱粉滓の中の混じり物を取り出しながら、
「いつまで、こんなこと続くのかなァ」
と、ポツリと呟く。
「仕方ないよ、かあちゃん。戦争に勝つまでわ」
伸は、自分で相槌を打つ。
澱粉滓は、臭いを放っている。
「あっ、なんだ…… 蚯蚓が入っている!」
カツ江は、大きな声をあげる。
「かあちゃん、大丈夫だ。蚯蚓は熱さましになるから…… アッ、ハハハ……」
伸は後ろを振り向きながら大きな声で笑う。
「笑いごとじゃないョ」
カツ江は怒っている。それでも目は笑っていた。伸の屈託のない言葉にカツ江は感謝していた。異物を取り除いた澱粉滓に麩を混ぜ、捏ねてから掌で丸めて小判型に作り、蒸篭の簀子の上に並べて蒸しはじめた。
蒸篭から立ちのぼる湯気を眺めながら、
「こんなものばかり食べさせていて……」
カツ江は、溜息ともつかぬ言葉を吐く。
「あんちゃん、どうしてる?」
「まだ、寝ているようだ」
「そうか、今日は暑いからたいへんだなァ」
「お前でも、心配すること、あるんだ」
「そりゃあ、兄貴だもの…… 足の傷、膿まなきゃいいんだけど……」
「ほんとに…… それが心配だョ。学校で、あんな事さえなければ……」
あんちゃんは、伸より二つ年上、国民高等小学校の5年生になる。
夏休み前の7月の初めに、学校の行事で、軍に供出するタバコの代用になる虎杖の葉を採りに行ったとき、幾春別川の堤防で事故にあった。
その日、あんちゃんは、数人の生徒達と鎌を使って虎杖を茎から刈り取り、1カ所に集めていた。肩に担ぎ数回往復しているうちに、一人の生徒の使っている鎌が、あんちゃんの右足の踝に刺さって大怪我となり、ずっと学校を休んでいた。夏休みに入っても傷は治らず、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、近くの広場まで、伸は、あんちゃんをリヤカーに乗せて避難する。
「死んでもいいから…… ここに、おいてくれ」
あんちゃんは、泣きながら、カツ江や伸に訴えていた。
伸は、禿びた下駄を引きずり、カツ江の曳くリヤカーの後を追い、砂利道の国道12号を北へ向かう。
木炭を焚いて走る貨物自動車が行き交い、砂埃をあげて通り過ぎる。道路の両端に砂利を押上げて轍ができ、その中に、リヤカーのタイヤが入ると抜け出すのが難しい。道端の雑草は、土埃にまみれて緑を失っている。
国鉄の函館本線と幌内線が行き交う東の踏み切りに差し掛かった。けたたましく警笛を鳴らし、動輪が大きな地響きをたて、蒸気機関車が目の前を通過する。運転手は、帽子の顎紐を顎にかけ、肘を窓枠にかけている。踏み切りでまっている伸を見て手を振ってくれる。白い手袋が目に染みる。伸は両手を上げて手を振った。
石炭を積んだ貨車から水が漏れている。枕木を濡らしていく。伸は、大きな声で貨車を数える。14、5両数えたが、あまりの早さに目がついていくのが、やっとだ。漸く数え終わる。貨車は25両連結されていた。
東の踏み切りを過ぎると、国道12号は大きく曲がり、幾春別川の堤防沿いには玉葱畑、その片側には燕麦畑が広がっていた。燕麦は茶褐色に熟れ、倒伏している所もあったが、刈り取りは間近だった。
空はどこまでも澄みわたり、東の空には入道雲が現れていた。玉葱畑の畦道に、リヤカーを入れる。
カツ江は、リヤカーの荷台から叺や筵、南京袋・細引きを草むらの上に置く。畦道から堤防にかけて、酸葉・蓬・大葉子等の雑草が行く手を妨げている。それらの雑草は、伸の膝株を覆うほどに生長している。草いきれがむっとする。堤防には虎杖が密生している。
堤防の上から下を覗くと、涼しい風に乗って水の匂いがする。郭公の声が下のほうから聞こえてくる。伸には、別世界に来たように思えた。堤防の上を少し歩くと、川岸に下りる獣道があった。そこから川岸に下りる。畳20畳ほどの砂地に出た。砂地は、真夏の直射日光に照らされて熱をおびている。伸は、履いている下駄を脱ぎ、素足で砂の上に立つ。灼熱が足の裏を突き抜ける。
「ひえっ、熱い!」
伸は、駆け足で川辺に行き足を冷やす。足首まで水に漬かり、周りを見わたす。川岸には柳が生い茂っている。雨の降るたびに水嵩が増し、柳は埋もれ、根元は泥水で汚れている。
カツ江が獣道を下りてくる。長い竹竿の鋤簾を肩に担ぎ、スコップを片手に杖代わりに持ち、一歩、一歩踏みしめるように下りてくる。獣道は粘土地で下り坂だ。
「かあちゃん、きをつけろョ」
伸は、怒鳴るように声をかける。
「ありがとさん」
伸の気持ちをくんだのか、カツ江は微笑をうかべ、ゆっくりと砂地に下りた。
「伸、すまんがのう、急いで篩を持ってきておくれ」
「ああ、いいよ。どこに、ある?かあちゃん」
「納屋の入り口の前に、置いてあるから……」
伸は、走って獣道の坂を上がっていく。伸の背より遥かに大きい虎杖の葉が、伸の顔を打つ。篩はすぐに見つかった。伸は、篩を両手に持ち、頭の上に乗せておどけながら、カツ江のいる砂地に戻る。
カツ江は、地下足袋を履きかえ、もんぺの裾を膝までたくしあげて川の中に入る。竹竿の中央を両手で握り、鋤簾を川面に目掛けて投げこむ。
ドボーン。
大きな音がする。その音が涼風にのって谺してくる。川面に波紋が広がり、岸辺に押し寄せてくる。
カツ江は、二間程の長い竹竿を肩にあて、両腕に力を入れて手前の方に引く。太い竹竿が撓う。手繰るように鋤簾を手前に引き寄せると、竹竿を立てて鋤簾をくるりと方向転換させる。そこで竹竿を握り直して、水の中で上下に鋤簾を揺する。鋤簾の金網から、川砂だけがふるい落とされ、小石混じりの少量の川炭だけになる。その少量の川炭が、水に濡れて黒く光っている。岸辺に置いてある篩の中に、小石混じりの川炭をあける。鋤簾は、流されないように岸に揚げ、腰をかがめ篩を両手に持ってふるう。篩から小さな小石が落ちていく。篩の中に手を入れて川炭以外の小石を取り除く。カツ江は黙々と仕事を続ける。額には、べっとりと汗が滲んでいる。篩の中には、少量の川炭だけが残った。カツ江は、それを筵の上に広げた。
伸は、川岸から堤防に続く獣道に、剣先スコップを使って、自分の歩きやすいように粘土の坂道を削る。真夏の暑い陽射しを、虎杖の大きな葉が遮り、川面から吹く風が涼しさを増す。息を凝らし耳を澄ます。下の方から、時々、鋤簾が川面に落ちる音が聞こえてくる。カツ江は、休まずに川炭を拾っている。
伸は、空腹を感じた。酸葉の茎を折り、その茎を口に咥えてから、ゆっくりと噛みしめた。青臭い酸っぱい汁が口の中に広がる。そして呑みこむ。
「腹、へったなァ」
伸は、呟きながら、また下の方に耳を傾ける。カツ江は、まだ仕事を続けている。
「あと、少し、あと少し……」
伸は、やけに大きな声を上げながら、堤防へ走った。
「かあちゃん、腹、へったぞう」
伸は、吠えるように叫びながら獣道をいっきに駆け下りた。
カツ江は、砂地に筵をひろげ、その上に足を伸ばして伸を待っていた。濡れた地下足袋を脱ぎ、素足になっている。足は潤けて白くなっていた。伸はカツ江の側に座る。
「伸、わるいけど、そこの水を、持ってきて」
カツ江は、指を差す。そこには一升瓶が2本、川の水の中で冷やされている。
「あいよッ」
伸は素直に腰を上げる。その間、カツ江は、新聞紙の包みを開き、木で作った弁当箱を取り出した。その中には、今朝作った澱粉滓に麩の混じった団子が入っている。
伸も、カツ江も、それを貪るように食べた。
「かあちゃん…… 何か、変だなァ?」
「何が変だ?」
カツ江は、食べる手を休める。
「……何日も空襲がないからサ」
「空襲なんか、ない方がいいサ」
カツ江は、吐き捨てるように言う。
「そうだけど……」
伸は、筵の上に仰向けになり、眼を細めて空を見上げた。涼しい風が頬にそよぐ。カツ江は頬にはりついた髪の毛を指で梳く。伸は目を瞑ったままだ。涼しい川風にのって虫の声が聞こえてくる。
その日は、天皇陛下の玉音放送があるから、正午には必ずラジオを聞くようにと、町内の班長から連絡があった。
あんちゃんは、不自由な足で体を動かし、ラジオのスイッチを入れる。ラジオから、“君が代”の音楽がながれてきた。天皇陛下の厳かな声が聞こえてくる。小学校5年生のあんちゃんには、それが何を意味しているのか、理解することができなかった。
窓から外を眺めていると、数人の大人達が、立ち話をしている。
−−−日本が戦争に敗けたーーー
と、言っているのが聞こえてきた。
「もう、空襲はない。もう、逃げなくてもいい」
あんちゃんは、心の中で喜んだ。
伸は、微睡みから覚める。大きく欠伸をしてカツ江を探す。カツ江は、少し離れた場所に移っていた。
「かあちゃん、俺、上に川炭運ぶからなァ」
「ああ、気つけて、がんばってよぅ」
カツ江の声は、大きかった。
伸は、小山になっている川炭を、スコップで叺の中に入れる。三分の一くらいまで詰めると、その叺を流木の上に載せ、細引きを幾重にも巻いて、川炭がこぼれないようにする。赤子を背負う格好で叺を負んぶし、獣道を裸足で上る。顔が紅潮し息が弾んでいる。小さな体で必死に獣道を上る伸の姿を見て、カツ江は頼もしく思った。
二人そろって家に帰ると、あんちゃんが、
「日本が、戦争に敗けた……」
と言って、不自由な足を引き二人を玄関で迎えた。
昭和20年8月15日の、暑くて長い一日が終わった。