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この度、『幾春別川物語』の発刊に大変なご苦労をされておられる先輩の長井利一さんにお会いした折に、「あなたも西川町に生まれ育ったのだから、幾春別川の事で思い出があれば協力して頂きたい」と言われ、若干記憶をたどってみることに致しました。 元の川向土功組合は、明治35年12月の創立で、現在は岩見沢土地改良区として96年の歴史を有することになります。平成13年には一世紀を迎えることになり、全道でも最古の土地改良区であります。その歴史は、水稲耕作のための水の確保を、いかにするか、との戦いであり、そして、その水の源を百パーセント幾春別川に求めておりましたので、幾春別川なくして鉄北地区の水田開発を語ることが出来ません。川向土功組合の創立代表の青木利一氏を中心に、数多くの先人の方々が、死力を尽くして幾春別川の堰止めの根幹工事を、明治38年に完成させて下さいました。 幾春別川の歴史は、ずっと氾濫と洪水のイメージが強いものでした。そのために、治水工事も長い間続けられ苦難もありましたが、土地改良区にとっては、掛け替えのない母なる川でありました。その川も、炭鉱の開発と森林の乱伐等によって源流が次第に枯渇することが多くなり、水不足に悩まされました。そういうことで、洪水調整と上水道の確保、更に発電と農業用水の確保のため、桂沢ダムの着工が始まりましたが、ダムの完成までの間は、随分と大変なことがありました。 特に、戦後の昭和23年から26年においては渇水がひどく、「番水」(時間を決めて交互に水を振り分けて使うこと)の方法をとりました。あまりの水不足で、当時の土功組合からの出動命令によって、耕作者全員(三百人)がスコップを持って岡山の川向土功の 頭首工に向かいました。全員が幾春別川に入り、水たまりを見つけると石等を除去して、わずかな水を誘い出し、更に上流の市来知辺りまで行ったものです。これが、通称“川浚い”といった作業でした。 私自身も、当時出役をした一人として忘れることの出来ない思い出であります。今、考えると、ほんの気休めにしか過ぎなかったのですが、当時としては、止むに止まれぬ行為であったのでした。みんなで仕事をやりましたが、みんなの水田に水が入ることはありませんでした。私も家族と共に、水の無い水田の草取りを手鍬でやった年が幾度かありました。また、西川町の長井さん宅の前からでしたが、消防ポンプを持ち出して、幾春別川のわずかな水を汲み上げたこともありました。 その後、桂沢ダムの完成によって、洪水調整はもとより水田の用水も常時確保されるようになりました。今は、水不足の心配も無く安心して営農をすることが出来るようになりましたが、これも、先人のご苦労と努力の賜物であると思っています。未来永劫に忘れてはならないことであります。 時代の変化は早まり、すべての河川の整備が進むなか、幾春別川も近代的な河川として随分と改修整備され、また、炭鉱の閉山によって綺麗な水が流れる川になってきました。 桂沢ダムを始め、上流から幾春別川に注ぎ込む支流の土質の関係で、全くの清流を期待することは不可能かも知れませんが、今はこの川に、サケが遡上して来るようになりました。私達の郷土岩見沢を流れる幾春別川が、私達市民の大切な財産として、しっかりと守られて行くべきでありましょう。 私達の岩見沢土地改良区は、受益面積3,800ヘクタール余の耕地と530余人の組合員を擁しておりますが、田畑に潤いをもたらし、生計を守ってくれるのがこの幾春別川であります。この母なる川の恩恵に感謝し、今後一層の関心をもって幾春別川を守り育てていく必要を、身をもって感じているところであります。 | |