|
「幾春別川本流の歴史を繙と、幾春別川は源を空知夕張の郡界なるアシベツヌプリ山(海抜1,062b)に発し、渓谷をまわり、平野を横ぎり、空知郡幌向の野に至りて石狩川に合す。その流域約十里、水勢すこぶる急激にして、一たび渓間を出でて平野に下るや、地をうがつことおうおう数丈、両岸したがって断がいをなし、深くけんぼの底を流る。かんがい溝の起点たる市来知村岡山のあたりは、平地と水平面との差、実に二十尺以上もあり……」と、『国営美唄かんぱい事業誌』に記載されている。 明治時代の幾春別川は、自然流水そのままで屈曲蛇行が多く、更に川幅も狭かったようだ。一度大雨が降ると大洪水となり、幾度となく広い地域の住民が水害に遭遇し、また農作物が一夜にして皆無になる等の大きな被害を蒙ってきた。 また、この事業誌には、戦前の幾春別川開発計画が次の様に記されている。 「幾春別川の水源開発構想は、明治末期からあり、明治44年から大正 2年にかけて当時の逓信省により、水力発電を目的とする調査が行われ、その後昭和初期にいたり、今度は、かんがい用水の水源として開発しようという要望が高まりをみせた。(中略)。 北海土功組合はさらに、昭和11年から 3ケ年にわたり毎年一万円の調査費を支出して調査を続ける一方、北海道庁は昭和 9年から調査に着手、翌10年からは河水統制調査によって調査が進められ、昭和13年には、桂沢ダムの外芦別川の流域変更を含む計画案がまとめられ、さらに、内務省、逓信省、日本発送電等の現地調査を経て、昭和16年頃には、北海道庁(治水)、日本発送電(発電)、土功組合(かんがい)、その他受益団体の共同負担による事業の着工段階に入ったが、第二次大戦への突入により、遂に実現をみるにいたらなかった。」 この記述にあるように、目的の一つは幾春別川の洪水調節による水害防止、また一つはかんがい用水源を確保するための桂沢ダムの建設構想だと思われる。 昭和16年、日中戦争の戦域が更に拡大して、12月 8日には太平洋戦争に突入し、戦局はいよいよ重大な戦時体制となっていった。だが、このような時局の中で、幾春別川新川放水路の掘削工事だけは進められた。一方、莫大な予算を必要とするダムの建設は出来ないことであったと思われる。 今、五十有余年を過ぎてそのことの流れを見ると、当時、この水路が通る地帯の北5線から北6線の間は、道庁が管理する地方費の土地であった。北6線から下流域は荒地が多く、一度開拓されたが人手不足で耕作が出来ず、僅かに2戸か3戸が耕作していたように聞いている。 現在の「中の橋」から上流部の地帯は早くに開けた地帯で、当時はすでに水田となっていた。 このように水路が通る地帯は、上流部を除いて中流と下流部の地帯は道庁の管理地であり、下流部には荒地が多かったことを考えると、地権者に対する買収の説得も、戦時国策の名のもとに極めて短時日のうちに進められたと思う。私はこの時、まだ西川向国民学校高等科 1年生で13歳だったので、親からこの放水路の工事が今年の冬期から始められることになった、と聞かされても、全く実感が湧かなかった。戦後、(昭和23年)になって二町三反分の保証金として新たに230円が空知支庁から支払われることになり、私が受け取りに行った。すでに工事から7年も経過しており、戦後の物価上昇でお金の価値も年々低下していたので、それは、玄米10キロ(239円)に満たないものだった。 人工の大河川の掘削工事は、昭和9年から計画され16年に着工されたが、丁度この年は春先からの低温気象で冷害凶作の年となった。不作減収農家への経済対策として救農土木工事が採り上げられ、築堤場所への掘削泥炭土馬搬が行われた。農家の人々が人夫としてこの工事に出役し、幾何かの賃金を稼いだと、父や先輩から聞かされた。この時の人夫賃金は、1日稼いで1円50銭から2円くらいだったという。 掘削工事は下流部から始められ、次第に上流に向かって進められたようだ。この地帯は広く分布する低位泥炭土の湿地帯なので、1メートルも掘ると地下水がどんどん湧き出る。それで、この湧き水を下流に流すために、大排水の掘削が先に進められた。昭和16年の冬も過ぎ、17年の春になって掘削工事が本格的になった。下流部に向かって掘削された1本の大排水の幅を徐々に広く掘り進む工法なので、その掘削した泥炭土を築堤場所に運搬する。運搬は人力トロッコ。軌道は細い枕木に細いレールを取り付けただけのもの。1台に2立米くらいの泥炭土を積み込んで、二人で押して運ぶ。 その頃は、戦争がますます激しくなり、男は殆ど戦争に駆り出され、また、生活物資等も極度に不足していた。その中で、このような大工事をするための人集めは、なかなか大変だったようである。 放水路の掘削が進んでいくと同時に、私達が通い作している道路が分断され、耕作不能になった土地もあった。また、耕作可能な畑も原野の荒地の中を通ってようやく細々と耕作を続けたりした。このような状態は、昭和40年頃まで続いた。その後、築堤のための運搬路の敷設で、ようやく耕作の便が良くなった。更に、50年から行われた圃場整備によって水田の区画も整い、道路も整備されたので、昔の面影が一変し近代的な水田に変わって行った。それにしても長い苦労の連続であった。 掘削作業は、「中の橋」から上流部は沖積土層なので、昭和18年頃から人手に替わって大型機械が導入された。これは、現在の暗渠掘削のトレンチャーを幾倍も大型にしたようなものだった。掘り揚げた土は、蒸気機関車に運搬車を15両くらいも連結して運ぶものだった。 この頃の作業人夫(土方と言っていた)は、大半が朝鮮の人達だったようだ。戦局が一段と厳しくなっていく中で、大勢の土方を使っている請負業者は、配給される米だけでは空腹を満たすことが出来ず、私の家などにも度々食べる物を頼むと言って来た。米は無いので馬鈴薯を何度か飯場に運んだことがある。請負業者の名前も今はもう記憶にないが、土方を監視する棒頭が2,3人して度々私の家に夕食後遊びに来ていた。父が現役兵として軍隊に行っていた時(明治42年)、たまたま韓国の暴徒鎮圧のための忠清北道忠州方面に8か月間程駐屯していたことがあった。それで韓国語を少し話せることもあって、朝鮮から来ていた棒頭が遊びに来ていたのだということが、父の軍隊手帳を見て分かった。 また、昭和19年の春頃から軍隊が駐屯し、50人程の兵隊が西川向国民学校の屋内運動場を宿舎にして、この水路掘削の作業に当たっていた。指揮官の将校は、その向かいの谷玉吉さん(元市議会議長)の住宅の座敷を宿所にしていた。 当時は極度の物資不足で、衣類等はいうにおよばず靴などもゴム製のものはなかった。土方は、夏は裸で作業が出来ても、冬の凍れる時は大変だったと思う。冬場の作業の時も地下足袋を履いていたが、雪降りの時は、藁で編んだ蓑を着て作業をしていた。夕方、1 日の作業を終えて飯場に帰ってくる。監視されながらスコップを小脇に抱えてとぼとぼ歩いている姿が、ほんとうに哀れに見えた。 昭和20年も、敗戦の様相が濃くなっていく中で工事は続けられていたが、8月15日の終戦の日に駐屯していた軍隊はすぐに原隊に戻った。 朝鮮人労務者も一時は姿が見えなくなっていたが、昭和22年になって、ようやく掘削工事が始まった。それから4年後の、26年ころに新水路の暫定掘削は一応終了した。 『西川町郷土誌』によると、昭和9年に計画、同16年に着工した新水路の工事は、36年にようやく旧河道が締め切られたものの、新水路両岸堤防については、泥炭地の故もあって暫定の断面を確保したに止まった。着工以来40数年を経た54年に至って漸く左右両岸築堤の暫定盛り土を終了したとあり、更に基礎処理を含めて、まだ数十万立方メートルの盛土が必要である、と記述されている。 | |