私と幾春別川の思い出
岩見沢市   鎌田 紀美子
私は7歳の時(昭和5年)に、志文冷水(現在の三井グリーンランド)から北区10番地(現在の若松町)に移住しました。自宅から約400メートル位の所に幾春別川が流れていて、よく近所の子供達男女4,5人で川で遊んだものです。
柳の小枝に糸を付け、先に身欠ニシンや煮干を付けて、エビやカニを釣り、堤防から小枝を拾ってきて焚火で焼いたり、ゆでたりして食べました。また、エビの頭を取り、身を押し出して食べるのですが、私も恐る恐る食べてみました。その何と甘くて軟らかなこと、舌ざわりのよいものでした。現在、私のエビ好きはここから始まったと思います。友達と太陽が西に沈む頃まで遊んだ日々が懐かしく思い出されます。
幾春別川へ行く道端には、白い花のレンゲ草が沢山生えていて、蜜蜂が飛びかっていました。母に買って貰ったガッパ(木製の女子用履き物)を手に付け、素足でそっと蜂に近づき、潰さないようにガ ッパで挟み、静かにもみ落として蜂の頭と胴を切りはなし、尻をつまみ、剣を取って、そっとつまむとプツンと涙のような蜜が出てきます。それを嘗めたものです。今思い出しても、よくこんな芸当が出来たものだと、我ながら感心しています。暑い日差しの中で、素足で歩いた時の焼きつくような土の感触を、今も足の裏が覚えています。
大雨が降ると、今も蘇るのは、小学生の頃、長雨が続くと必ず家の周囲が水に浸り、井戸水が使えなくなるので、器のあるだけを軒下に並べて雨水を確保したものです。父は、幾春別川の水位を見に行き、大変心配した顔をして戻って来たことが何回となくありました。水が退いたら、子供でも後 片付けを手伝いました。何時の頃だったか、作物が倒れて、一面緑色を失った原野になっていたのを覚えています。
私は、昭和18年4月に地元で結婚しましたが、同年7月に夫が出征、旭川の第四部隊に入隊しました。その夫が、同年9月15日頃、最北端の千島へ行く途中、岩見沢の駅を通過する時、汽車の鎧戸の隙間から北区の水害の様子を見たそうです。この年の夏は雨らしい雨が降らず、畑は勿論、水田までが地割れして、枯死している様子が新聞で報道されました。あちこちで、雨乞いをする等、紙面を賑わしたものです。
この水害は、9月11日夜半からの大雨で、12日午後 3時頃から、幾春別川の堤防が数箇所にわたって決壊したためでした。住宅や道路も被害を受けました。
家の裏に出てみると、増水した川には、大きな材木や南瓜・西瓜等が三笠方面から流れてきました。義父等は、土手が決壊したら家が押し流されると、大変心配したものです。どうやら堤防の決壊もなく時が過ぎ、夕日が沈む頃、川辺に立ち、水の流れを眺めて安堵したものでした。
幾春別川の土手には、春になると、セリ・ミツバ・フキ等が生え、それを摘んでよく食べました。また、土手には、イタドリが沢山生い茂っていました。これを刈り取って、10本位を一束にして乾燥し、30センチ位に折って薪の代わりに燃やし、これでご飯を炊き、残り火で蒸らすと、とても美味しいご飯が出来上がりました。
昭和22年(結婚後4年)に分家しました。農作業が一段落した7月下旬から8月中旬頃にかけて、幾春別川の川底から川炭を拾いました。拾うといっても、水の中なので金網の道具に長い竿を付けて、川底をさらうのです。私は丸い「とおし」で、砂利やごみを取り除くのです。上流から流れて来るので、どの石炭も角が取れて丸くなっています。とにかく質より量なので、ひと夏に夫と二人で 9トン位も取りました。
お陰で冬期間の燃料費が浮き、家計が豊かになり、毎年本当に有り難いことでした。しかし、昭和32年の桂沢ダムの完成によって水量が減りましたので、お助けの石炭も流れてこなくなりました。
まだ川原に、砂場があった頃、子供達を連れて遊ばせました。穴を掘ったり水を流したりして、カニ・エビを見つけてはしゃぐ子供に、私は、自分の幼い日の思い出を重ね合わせてみたものでした。今は、それがありません。
故鎌田巖医師は、休日等になると、よく幾春別川で釣りを楽しんでおられました。主にウグイやヤツメ等でしたが、先生は、憩いの場所とされていたようです。
幾春別川の現在は、流れもゆるやかになり、降雨時に増水した時は水門の板を外して放水しております。時には、土手に立ちますが、幾春別川は私にとって、思い出を沢山つくってくれた大切な川となりました。

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