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私の生まれた所は、東川向(現在の稔町)の幾春別川の流域で、5 歳の時(昭和11年)親が北部(現在の若松町)に移転して来ました。それで、東川向時代の幾春別川の思い出はまったくありません。 当時の小学校の通学区域は、現在の西11丁目以西は中央小学校、西10丁目以東が北本町小学校に通学していた関係で、私も北本町小学校に昭和12年に入学しました。今考えると、私の兄、姉が北本町小学校に通学していることは理解できますが、同じ中央小学校の通学区域から細岡家でも北本町小学校に通学していましたが、その謎は、解明されることなく現在にいたりました。従って、私の家と細岡家とが、今でいう越境通学をしていたことになります。付近の子供達はすべて中央小学校へ通学していたので、小学校時代に付近の子供達と遊んだ記憶はあまり思い出せません。 幾春別川で遊んだ思い出は、北本町小学校での冬の体育の時のスキーです。学校の屋外グランドが幾春別川の土手になっており、その土手から川底に向かって滑るのです。冬は水量が極端に渇水していて比較的安全なスキー場として活用されていたと思われます。長い冬が終わると雪解け水で水量が多くなり、それからの季節が流し針によるウグイ釣りの時でした。まず、小川でドジョウを取ってきて、生きたドジョウを釣り針にさして、夕方、北部神社の裏手の幾春別川の流れの比較的に淀んでいる箇所に仕掛けるのです。当然、目印をつけて翌朝の引き上げに備えるのですが、それが逆に徒となり、何回かは付近の子供に先回りされて引き上げられて、くやしい思いをした記憶があります。いつの時代にも悪童がいたものです。 春から夏に季節が移り、水量が減ってくると、大人達は川炭取りに励み、暖房用燃料の確保に努めておりました。子供達の海水浴は、幾春別川がプール代用で、夏休みなどは朝から夕方暗くなるまで遊んでいたものです。日中は、家からモメン糸を持ってきて、ミミズを糸で縛り川に垂らして、エビ、カニ等を釣って焚火で焼いて食べ、よく遊んだものです。子供達にとっての幾春別川は、本当に四季を通して、身近な遊園地的存在であったと思います。 古老による座談会に私も出席させて頂き、話を聞きましたが、古老から出る言葉は、異口同音に楽しい思い出話はなく、苦しい体験談が多く出てきました。先人である古老達がいかに幾春別川に苦しめられたか、その犠牲のうえに立って今の幾春別川の姿があるのだなと思い頭が下がりました。 記憶している秋の幾春別川の水は雨の関係で汚れており、魚の住めるような状況ではありませんでした。昭和40年代に入ると、エネルギー革命で炭鉱が相次いで閉山となり、それに伴って川の水質も年々浄化され清流が戻ってくるようになりました。そして、平成 3年にはサケが遡上してくる川にまで自然が回復したことは、何とすばらしいことではないでしょうか。 私は昭和28年に岩見沢を離れて、昭和59年に再び岩見沢市民となり幾春別川を見ております。昔の幾春別川の自然を身近なものにするため、幾春別川をよくする市民の会が発足して、着々とその実績を納めていますが、これは偉大なことだと思います。 この幾春別川をよくする市民の会を更に発展させるために、私達流域に住まいする者として協力していく所存であります。 最後に、幾春別川の清流に魚が泳ぎ、親しみと潤いのある川に 1日でも早くなることを願いながら筆を置きます。 | |