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平成 3年、北本町会で記念誌を発行することになった。前半は「懐古のかずかず」とし、年表的なものより先輩の思い出話を中心に編集した。多くの方々が幾春別川との深い関わりを寄せてくれた。 福田ツユさんは、幾春別川の両岸に柳・胡桃・楢などの大木が密生し鯉・鮒・海老などが豊かに獲れたことや、長平橋の思い出を書かれ、市村正さんは、子供の頃はよく幾春別川で泳いだものだ。ところが不思議に北本町付近は子供どころか大人まで溺死する箇所があったことや、北盛橋の渡橋式の様子を記され、磯部清一さんは、少年時代の一番印象的で思い出の深いものとして川遊びが思う存分楽しめたことや、更に幾春別川は川炭の宝庫であったことを述べられ、戸川栄子さんは、豪雨による洪水の恐ろしさや、平常は川ガニ・エビ・フナなどがたくさんいて、子ども達にとっては恰好の遊び場であり、川炭が戦中、戦後の燃料難を救ってくれたことなど、幾春別川は暴れ川、されど恵みの川と結ばれていた。 町内の会合のあと、雑談になり幾春別川に話が及ぶと、エビやカニ取りのえさに身欠鰊を使って怒られたこと、学校や親から幾春別川での泳ぎは禁止されていたが、暑い夏の日は我慢ができず川泳ぎをした。川から上がると顔や手足についた炭塵を払い落として家に帰る。親に耳の後ろに払い残した炭塵を見つけられ叱られたこと等果てしなく話は続く。それぞれの瞳は少年そのものである。北本町に育った中高年は、幾春別川との直接のふれあいを通して思い出をいっぱい持っている。 私が北本町に住んだのは昭和44年からである。だから、幾春別川の洪水の恐怖も知らなければ、勿論川遊びの経験もない。 札幌生まれの私は泳ぎを豊平川で覚えた。プールは中島にひとつあるだけだったから、豊平川に数カ所泳げる場所が指定されたいた。上級生が泳ぎばかりでなく、いろいろなことを指導してくれたものだった。中学生になると、当時足に巻いていたゲートルを褌にして泳いだ。泳ぎ終わると堤防のコンクリートの上に伸ばして乾かす。乾くまでの間、藻岩山を正面にして話が弾む。秋が深まると、ゆったりと遡上する鮭が2,3匹橋の上から見ることができた。 戦後、新十津川の僻地の学校に勤めたことがある。夏は子ども達と総富地川へ出かけた。虫ピンを曲げて作った釣り針、木綿糸のテグス、柳の枝の釣り竿で、清流に育ったウグイが簡単に釣れた。それは戦後の食糧難の貴重な蛋白源となった。必要量だけ釣るとみんなで泳ぎだす。集団から放れたところを青大将が一匹、鎌首をもたげて一直線に泳いで行く。 北本町に住む子どもだけでなく、今は、川との直接的なふれあいを体験している子どもは殆どいないのではないだろうか。子ども達の楽しめる川の存在は無理なのだろうか。 私と幾春別川との初めての出会いは、昭和19年の秋であった。職員の研修旅行で、桂沢小学校を見学することになった。桂沢小学校は体育の指定校として各地からの見学者が溢れていた。 岩見沢から幾春別まで車窓から見える黒く濁った川が幾春別川であることを知った。泥水で土色に濁った川を見たことはあったが、黒い水の印象は強烈であった。幾春別から森林鉄道(木材を運搬するためのトロッコ)に乗り込んだ。眼下に見える幾春別川は炭鉱の切れるあたりから澄んだ水に変わる。一つの川の僅かな距離のなかでの澄んだ青と濁った黒の対比が今でも眼に焼きついている。翌日、炭鉱を見学し選炭場を通る大量の水が川へ流れて行くのを見た。そのことで黒く濁った川水の正体が朧げながら納得することができた。 桂沢小学校はダムの湖底に沈み、そして三笠の数々の炭鉱も閉山になってしまった。 昭和44年に北本町に住むことになった。勤務先は三笠の弥生小学校だったので、バス通勤の私は狩野橋を渡り駅からバスに乗る。バスは岡山橋をはじめ幾春別川にかかる三つの橋を渡り目的地に着く。片道4回、1日最低 8回は無意識のうちに幾春別川を渡ることになる。また教室の窓から、何時でも無表情な黒い幾春別川の姿を見ることができた。家へ遊びに来た子ども達が狩野橋を渡る時、下を流れる川が幾春別川と知り、私の家の前から船に乗ったら、黙っていてもここへ着くんだと大声で話していたのを思い出す。 昭和45年、何故か『三笠市史』の編集委員に選任され、2 週間余勤務が終わってから、原稿整理のため市民会館の一室にこもり、深夜まで作業に当たった。その中で三笠市民と幾春別川の深くて多様な関わりを知ることができた。 昭和46年、奔別炭鉱が閉山した。山を去る人、残る人、それぞれが不安を抱える毎日だった。子ども達の会話の中にも「行くとこきまった?」が多くなった。児童数は激減し、やがて閉校することが予想された。私も短かったが中味の濃い 3年間の三笠の勤務にピリオドを打つことになった。 幾春別川の水がきれいになり、鮭が戻って来たと喜ばれているが、私は単純に喜ぶことができないのは、国の政策の中で無力な子ども達の流した涙を忘れることができないからだ。私が「幾春別川をよくする市民の会」に入会させてもらったのも、そんな思いが一因となっている。 昭和61年、定年退職して北本町に永住することを決めた。北本町に住むと、病院・銀行・市役所・買い物など生活のいろいろな面で、市街地に出かけることが多くなり、意識するかしないかは別として、往復に幾春別川の上を通ることになる。往復に橋を渡ることが生きていることの証明になっている。 川面を渡る雪まじりの冷たい風の日は、コートの襟を立てて足早に橋を渡る。暖かい日差しの時は川辺の草花に目をとめ、大きく息を吸いながらゆっくりと橋を歩く。四季それぞれの幾春別川の姿を直接肌で感じていきたいものだ。 | |