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人の生活には、水と川と土との関わりは欠かせないが、幾度となく堤防の決壊による水害の繰り返しがあったことも幾春別川の歴史には多く記されている。 一方では、幾春別川から北村に続く岩見沢市の北側地域一帯は、湿地帯で極度の泥炭地、農地として耕作するには土地改良を行うことが急務であった。 土地の生産性を高めるには、その必要な土は山土か河川堤防内側の蛇行屈曲箇所等の土を求めることだった。12月の声を聞き、降雪期になると客土が始まる。正月休みもほどほどに仕事を再開し、凍れる朝はバチバチの箱の中に雪を入れ、箱底のこげるのを防ぎながら藁を燃やして暖を取り、「愛馬」にはスタミナをつけるために「人参と大豆」を与え、外は暗がり、午前3時の柱時計の時報を耳にして家を出る。1時間半を要して「土取り場」に向かったものであるが、今では懐かしい思い出となってよみがえってくる。 私が「馬搬客土事業」に参加したのは、幾春別川堤防河川敷地が土取り場となった昭和33年から37年にかけて、稔町地域で行われた稔地区団体営客土事業の時である。当時の稔小学校の前を通って奥地に向かう馬搬客土であり、その土取り場となったのは、現在の森本さん宅の向かいあたりに当たる今井さんの土地と幾春別川堤防地であったが、今は、その一部は建設会社の資材置き場となり、堤防沿いは公園道路として整備が進んでいる。 また、同じ時代に行われた西川地域での団体営客土事業は、今は、市民の健康づくりと憩いの場として、「パークゴルフ場」等が整備された「ひょうたん沼」の奥地への馬搬客土で、その土取り場となったのが、現在の西川町福祉会館の裏手あたりに当たる幾春別川堤防地であったと記憶している。 馬橇での馬搬客土作業は荷を積んでからの切り込みが多く、また、土量も一合箱くらいで能率的でなかったので、この頃からバチバチが使われだした。バチバチ式は切り込み転覆などの心配が少なく、馬の引く力さえあれば土量も多く積載(二合から二・五合)可能な運搬方法になっていた。 地力のない泥炭地での水稲栽培には稲熱病がつきもので、春先から天候もよく、分けつ数も多く草丈もありと喜ぶ暇もなく、毎年のように倒伏にみまわれ、稲刈りに悩む状況であった。稲作を営む地域の人達には、幾春別川堤防河川敷地の堆積土を利用した馬搬客土による土地改良は冬季間を活用しての一大事業であったのである。 良質の米と量産の二面での水田耕作の安定した農業経営を夢見て、厳寒と吹雪の中で「馬搬客土」が行われ、不毛の原野が水田化されて行ったのである。当時はよく親たちから、一粒の米も 1年間を通じて、どんなに多くの人々の汗と手によって作られたか、今、こうして「茶碗」に盛られていることを考えなさい。「一粒の米も粗末にしてはいけない」と言われたが、その言葉を改めて重ね合わせている今日の自分である。 ここで、当時の「馬搬客土」作業の様子を少し紹介してみよう。 「馬搬客土」では、土取り場での積み込みの競争、馬との呼吸で川底から如何に一気に駆け上がるか、これが大変なこと。ようやく平坦な一般道路に上がっても、バチバチの横流れをさせないように、馬の手綱さばきが腕の見せどころで気の休まる暇はない。 しかし、これで安心は禁物である。一般道路を離れて、いよいよ「土下ろし場」である水田に入り運悪く先頭馬になったりすると、先方に見える目印表示を見ながら、ひたすら如何に馬の足を止めずに前進出来るかが、その 1日の仕事の勝負どころである。 一旦止まると、バチバチの裏に雪が溜まる。こぼれ落ちた土が裏金に凍り着いてしまう。馬に気合いを入れて、一気に前進出来た時はホッとするひと時である。一声で動けなかったらおしまい。底無し泥炭地では、馬の足はぬかり腹までが雪。次々と後続の馬がつながってし まう。気はあせる。手綱さばきだけでは馬は動かない。ついに気が高ぶって、エンピ(重粘土質の土を積み込む時に使う細く先のとがった専用スコップ)で馬の尻を叩く。災難なのは馬である。気合で地をはうように前進する馬もいる。 ようやく自分の「土下ろし場」に着いた時から、今度は人間の戦争である。如何に早く土を下ろすかである。半分の土量を片側に下ろし、バチバチの長さ分だけ前進して、残り半分の土量を反対側に弾みをつけて一気にバチ箱底を反転させて下ろすのである。一気に出来ないと、土がバチ箱底に着いてしまう。こうなってしまうと、ただあせるだけ。後ろから「どうした」と声が聞こえる。まさに馬と人間ともども緊張の連続である。 新しい道に入ると大変なことは誰しも同じこと。道が固まってきたあたりで、「土下ろし場」である水田に入ることが出来るかどうかは、難しい。でも、こればかりを気にしていては仕事にならないのも事実である。 このような「馬と人の共同作業」で得る当時の1日の働きは、距離によって多少の違いはあったが、バチバチ1台1回の土量二合あたり六百円位で、1日に7回から8回位やると1日の働きが四,五千年であったと記憶している。ちなみに当時、米一俵の生産者価格が、昭和33年で4,129円、昭和37年で4,866円だったので、1日に米一俵分の働きを目標にして馬とともに土と汗に塗れていたのである。 遠方から出かけていた私には到底及ぶことはできなかったが、客土事業の早期完成をめざして、一冬の働き上位者に懸賞金を出すことも行われていた。 これは、当時の農村青年にとっては土地改良事業に参画したという使命感とともに、青年活動に参加するための貴重な小遣い稼ぎの機会であったことも事実であった。 帰り道は凍れはじめる。雪が降ってくる。仕事の後、馬を走らせると腹を巻き、痩せることを知りつつも、つい、「ムチ」を打ってしまう。今、40年近くを経過して「愛馬」に可哀相なことをしたものと思うが、どこで眠りについているのか、「ありがとう。すまなかった」と、一声かけてやりたい心境である。 よく、それぞれの「まち」に地域住民の生活を支えてきた川、まちの発展を眺めてきた、そのまちにとっての「母なる川」があると話に聞くことがある。川泳ぎすると、炭塵で毛穴が真っ黒になってしまった幾春別川。馬搬客土の「土取り場」としての役割を果たした幾春別川堤防河川敷地。そして、時が流れて「サケ」がそ上してくる時代にと幾春別川の歴史は変遷を重ね、岩見沢市の百十余年の歩みの中で、大きな使命を果たしながら市民にも多くの思い出を作ってくれたのである。 二十一世紀を目前に控え、幾春別川が岩見沢市民にこれからも「夢とドラマ」を与えてくれることを願っている。 | |