私の幾春別川と三笠山村
東京都  平田 登志郎
空知郡三笠山村大字幌内字番外地。これは、かつての私の本籍地名で、今の東京都文京区に籍を移す以前のものである。大正14年11月の文化の日(当時は明治節の日)に、私はここで生まれている。幾春別川にそって鉄道が敷かれていた。その唐松駅から数分の所にあった祖父母の家が生家である。
祖父母は、四国の讃岐(香川県)から屯田で幾春別に入植し開拓した人である。家の周りは水田と畑、人家は、駅と奥に百メートル程入った同郷の松永さんの家がある程度のまことに侘しい田舎であった。しかし、その頃の幾春別川の流れは清く、三笠の山は今も青きふる里ではある。

幾春別川と鉄橋
土と汗のにおいのする祖父・行造の背中で、近くの踏み切りを越え橋を渡って1キロ程行くと、幾春別川が大きく蛇行してできた農地があった。その中程に川西さんの家があった(川の西側にあるので川西と言っていたのかも知れない)。
盆休みの遊びに連れて行かれたのか、送り火と灯篭流し、紺色の茄子と青いキウリや西瓜の赤が、鉄橋の見える川面に浮かんで流れていった。
必死の思いで先祖の地を離れ、移民として海峡を渡り、遠い蝦夷地・北海道を開拓した人々が、厳しい開墾も終わり一息ついたのがこの時期であろう。まだ戦争の迫る気配も感じられなかった頃である。

祖母への手紙
拝啓 浄土のおばあさん安らかにお過ごしですか。行造じいさんと、弟の昭二が亡くなり、おばあさんと二人だけになった頃がよく思い出されます。「とっきゃん、とっきゃん」と私を呼び、片時も離さず、大事にしてくれましたね。
信心深いあなたは、亡くなった二人の菩提を弔うため幾春別のお寺とお墓参りに私を連れて行きましたね。今でも、大勢の人々と寺の広い本堂やお墓の線香の煙が脳裏に焼きついています。
お彼岸の頃の墓参りに汽車で行った時の事、覚えていますか。唐松の駅を発車してすぐ、畑仕事の疲れか、うとうとしてました。私は初めて乗った列車が珍しくて、とうとうデッキに出てしまい、昇降口に腰を掛けていました。
走り去る景色が面白くて夢中になってしまった。蛇行した川の向こうに、遊びに行った川西さんの家が見えると、程なくゴウゴウという音と共に鉄橋にさしかかり、幾春別川上流の渓谷や泡立つ川の流れが見えた。
その時、まさかと思ったデッキに腰をかけ、外を覗きこんでいる孫をみつけて、さぞ魂消たことでしょう。列車がカーブすれば転倒したことでしょうに……。「あの時は驚ろかせて本当にごめんなさい」危ういことでした。四国弁で「とっきゃん、とっきゃん、どこにいきよった」と私を愛称で探す熊乃おばあさんの姿が今でも眼に浮かびます。その時も、そうだったのですが、私はあなたから怒られたり叱られたりした記憶は、一度もありませんでした。大切に可愛がられたことしか覚えていません。
ただその時の帰りは、何故か汽車に乗らず家まで二人で歩いて帰りましたね。途中にある弥生炭鉱の炭住の長い屋根が幾重にも見えたその台地の辺りで、疲れて坐り込み、困らせましたね。誰か知りあいのおばあさんと道の真ん中で、長い長い立話をしていたのは、あの時でしたか。
「この頃、鉄の玉を投げたり、受けたりする遊びが流行っているそうな、余程ひまな人なんじゃろうな」「おっとろしや、手が痛かろうに、骨が折れんかいのう」「それがあんた、厚い手袋をはいて(註:はめて)いるとな。内地では、ぎょうさんやっとるそうな」
あの話は、よく覚えていますよ。私もお二人と同じように、「変なことをする人達がいるものだ」と思っていたからです。あの時、話してくれた妙な遊びは、野球といって今では日本中どこでもやっています。浄土でテレビがあったら見て下さい。でもルールが分からないと、つまらないかも知れませんよ。敬具

幾春別川に渡したケーブルと駅広場
誰かに聞いてみたいことの1つに、当時唐松駅の裏にあった広場に向けて、対岸の崖の上からワイヤーケーブルが掛かっていたことがある。鉱石や木材を駅に運んで貨車に積みこむための、運送用ケーブルだったのであろう。時には人間も利用していたようである。
或る一夏の夜、何か部落の集いがあったのか、薪が赤々と燃え、映し出された人々の顔が見えた。一方岸の方には淀んだ川の流れに、ケーブルの影が黒々と映っている。ふしぎに私の記憶の中には、幾春別川の岸を洗う、ひたひたとした水の音だけがある。静かでどことなく草深い田舎の黒い闇と、赤く華やいだ焔の色が、川原に続く広場を充たしていた。

2−中流ー幌内太付近のこと
昭和5年頃、父は三笠から遠く離れた羽幌の町に越した。私は、祖母の許から引き取られて唐松を離れることになった。従って祖母は一人になった。寂しさに耐えられなかったのか、後を追うように羽幌にやってきた。
小学校に入学する私の姿を見るのを楽しみにしていたのだが、その寸前の春3月、私の手を握りながら、眠るようにその70年の生涯を閉じたのである。
父はその後も転勤で、長沼ー札幌、更に岩見沢ー和寒を経て昭和12年(小学5年の春)、幌内太にある三笠町役場に勤めることとなった。私は6年ぶりに幾春別川と再会することができたのである。

幌内太の河原
当時の幌内太駅を出て、道を右折し数十メートル上ると木造の大橋があった。幾春別川は橋を間にしてやや上流とすぐ下流に大きな河原を持っていた。
上流のそれは、私達が泳いだり川遊びをする場所だった。現在の三笠高校前のグランドや体育館の辺りは荒地か畑であった。その広い河原は、河川の改修で真っすぐな流れになっているようであるが、昔は自然の流れで大きく湾曲して、広い河原を抱えていた。付近は一面にドロヤナギが繁っていた。雪どけや大雨で流れが激しくなると、岸が削られ渕が深くなる。その分だけ畑地が少なくなっていく。富田さんの土地だったと思う。
家の向かいの山根君や富田君(二人とも亡くなった)など数人の仲間が集まり、泳ぎが飽きると河原の焚火で体を暖める。夏はいつも夕方まで遊びほうけていたものである。
「そうだ、そうだ、荘田村の村長さんの総領息子が、死んだそうだ。葬式饅頭うまかったそうだ。そうだ、そうだ、荘田村の……」と、延々と続く意味不明の呪文のようなのを飽きることなく唱える。年配の方ならきっと覚えていることであろう。
また、河原のそばの森に入りこんで木に登って、近くを通る列車に喚声をあげたり、いつまでも夏の1日を楽しませてくれた幾春別川であった。
橋の下流の河原は、当時の村役場の裏のテニスコートを抜けた所に広がっていた。幌内炭鉱の方からの支流の合流点が、この河原の端の方にあったはずである。対岸はやや深く釣り場になっていて、柳の枝の竿でウグイやドジョウが釣れた。
ある日、弟の千種を連れ出し、釣りに夢中になっている内に、近くで遊んでいた弟が足を踏みはずして川の中へ。「シマッタ」と思う間もなく、私は飛びこんでいた。なんとか引っぱり上げたが、札幌で買って貰った揃いの服はびしょびしょで靴は脱げて水の底、散々の体たらくで帰宅した。「弟は小さくて危ないから」と厳しく止められていたのを、可愛いばかりに連れ出していたのである。母に大目玉を食らい、おまけに運の悪い事は続くもので、近くにズボンのベルトがあったので、目から火の出る程打たれてしまった。
後で考えると、二人の新調の服と靴を、めちゃめちゃにしてしまった事が、怒りに加算されていたと思う。
川に恨みはないけれど、あの時の痛みは今も残っている。

されど大橋、私の大橋
幼い日の私の眼には、途方もなく大きく長い橋だった。しかし10年程前、小学校の級会に、50年ぶりで家内共々訪れた時、木の橋はコンクリートの立派な姿に変わっていた。
それにしても、抱き続けたイメージとは随分違っていたのである。
されど大橋・村一番の橋は、今も私の記憶の中の川に掛かっているのである。
大水の時は、橋に向かって滔々と流れてくる水の勢いは、橋桁をゆるがし白い水しぶきを上げる。欄干から覗くと吸い込まれるようで、恐ろしさに思わず後ずさりした。消防の人達も右往左往する、恐い幾春別川の一面であった。
橋の袂にあった魚屋や酒屋へのお使いで橋を渡る時や、年に1、2度、酒屋の倉庫にかかる活動写真(映画)を見た帰りに、川面に月を映していた穏やかな幾春別川の姿もあったのである。それにしても、私の見た活動写真の中に総天然色のものがあった。あの時代あの活動写真は一体なんだったのか、いまだに分からない。
今1つ、友人富田君の兄さんが、日支事変という名の戦争で昭和12年に戦死された。その遺骨を児童や国防婦人会などで駅に出迎えた。帰路の大橋は、欄干に雪を乗せて迎えていた。 戦雲が足を忍ばせ、近づいていた頃である。

幾春別川に秘境があった話
私の学校は市来知尋常高等小学校であった。奈良の都を偲んで名付けられた三笠山に近く、優雅な趣もあるが、空知集治監跡も近くにあった所である。グランド整備のため、そこからレンガを運びながら、先生に脱獄囚五寸釘寅吉の話を聞かされた。開拓当初の荒涼とした話に背筋が寒くなった。
そんな日の帰りのこと、数人の仲間と相談の結果、冒険してみようということになり、途中にある寺の横を通り抜け、裏道と呼ばれる川沿いの旧道に出た。暫く行くと林の中に獣道のようなもながあり、それを抜けると眼の前がぱっと開けて川岸に出た。そこだけが少し明るくて、世界から隔離されたような場所であった。
そこで、皆で渡れば恐くはないの心理状態になり、カバンを放り出しフルチンで泳ぐ。ふだん、広く開けた河原で遊んでいたのが、遮蔽されたような川岸なのでムードが違う。川底を探るとぬるぬるして予想外に深い。川の流れもゆったりして何となく不気味である。人影もない。早々にして引き上げる。堤の上の道を辿って大橋の袂に出てほっとした顔になった。他愛のないチビッコの幾春別川探検物語である。

幾春別川との別れ
いろんな思い出をくれた幾春別川との夏が過ぎ、冬も廻って昭和12年、私の一家は、更に北の町名寄に越すことになった。小学校卒業の年でもあった。以後60年、幾春別川にはすっかりご無沙汰のまま齢を重ねている。

追記
本年(平成9年)5月、岩見沢の緑が丘に住む義妹が、有志の方々によるこの企画の新聞記事を送ってくれ、執筆を奨められました。昨年、妻を難病の筋萎縮性側索硬化症で失い、彼女の遺作の詩画集の編集・発刊以後は筆を持つ気にもなれずに過ごしておりました。なぜか望郷の念頻りなこの頃、これが機縁となって筆を取ってみる気持ちになりました。
思い立つと、何故か私が小学校に入る年の3月に世を去った祖母のことや幼い頃の事が想い出されてなりません。
祖母の名は昔風で「熊乃」と言います。祖父・行造に嫁して明治の中頃、四国の讃岐(今の香川県)から幾春別の唐松に屯田入植した人です。不幸にして子に恵まれず、私の両親を養子夫婦に迎え家名を絶やさぬようにと考えました。その長男とした生まれた私は、平田家の跡取りという昔流の考え方もあってか、掌中の玉のように大事に可愛がられたことを覚えています。
そんな祖父母の眼差と、追憶の背景には、何時も幾春別川の豊かな流れが山々の緑を映して、私の心に甦って参ります。
今にして思えば、素朴な愛情で私を慈しみ愛しんでくれた恩情に応える術もなく、墓参さえも、亡くなった妻に促されて出掛けていたことを悔やんでいる次第です。
幸い、この『幾春別川物語』に稿を寄せて、荒地を切り開き、土に汗して働き、報われること少なく世を去った祖父母への供養にしたいと思っております。

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